スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

労働至上主義の限界

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/



毎日の生活は労働時間を中心に回っている。労働時間がまず置かれ、その時間の邪魔をしないように余暇が設定される。労働時間に干渉しないことが私的なことに時間を費やす最低条件となる のだ。自分のことに時間を使い、空いた時間で労働するのでなく、労働時間が人生の中心に存在し、空いた時間で自分の人生を生きるという具合だ。その労働時間や周辺都合は組織にゆだねられ、それゆえ上下関係を絶対視する日本の年功序列労働社会では事実上個人の時間財産は上司が牛耳ることとなる。

時間財産を牛耳ることで支配関係を絶対化し、さらに衣食住が生贄になる状態は普通のものとは思えない。そこにあるシステムから離脱した段階で餓死に準ずる状態が現実のものとなる可能性が常に存在し、その恐怖心から人々は社会規範や組織内部のルールに忠実になる。監視され、管理されることが当たり前になり、そのストレスを弱者同士でぶつけあう環境が完成する。そこから逃れ るためには今後の不安を完全に払拭できるだけの決定的経済力か、それに準ずる環境を手に入れるしかない。

完璧なものを最初から求められる今の環境では私はこのまま苦痛を感じ続けるだろう。70点のものをたくさん作り、後から順次更新していくというスタイルはこの社会では通用しない。最初から抜かりない完成品を納品し、ケチのつけようがない状態で人前に出さないと、非難の対象となってしまう。私は相手のミスをよほど致命傷じゃない限り咎めるどころか指摘さえもしないのだが、それは私がそうしているだけで、世の中は人の失敗をとことん追求することに飢えている。誰かを責める機会を常に伺っているのだ。

決裁文書がどうのこうのという話が出ているが、 紙媒体中心、郵送中心、責任の所在が担当者個人でありながらも実際の行動の主体が役職だったりする保守的な労働現場の場合、常に人の名誉のために消耗することを求められ、それゆえ一発でやらなけれならない。バージョン1、バージョン2のように訂正することは許されず、後から追加で何かを出したり内容を変更したりすると、郵送の手間がかかるだとか再度書類を整えなければならないとかいう理由で、クレーム、感情行動の要因になってしまう。こういう完璧なことを完璧にできる「人為ミスゼロ」の状態が「当たり前」と称される。未だにこの手法に馴染めない。