スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

発散依存症

感情がすぐに態度に出る人が多い。自分の気分を発散しないと気が済まない人だ。プライベートでこれをやる分にはいくらでも構わないが、労働現場や不特定多数が参入する場所でこれをやられるとかなりしんどい。結局は年功序列社会のマウンティングが横行している中で、最弱の人間がすべての掃き溜めになり、それらを一人で受けなければならなくなるからだ。立場の差を利用したマウンティングは残念ながら一般的に人格者と言われている人でも無意識のうちに繰り返している。あからさまに人間集団の中で地位を確立している人間は陰で八つ当たりしているタイプのサイコパスが多いが、いかにも善人で色々な人から人気があるような純粋な人物でさえ、下請けや若年者、雇用形態が違う者に横柄な態度を示したり、不機嫌な差異に態度を変えてくることがあるので注意が必要だ。

人によって態度を変えたり、自分の勝手な個人的都合による機嫌を他人で発散するのは人間として終わっていると思うし、そういう人間には生きることをやめていただきたい。他人に害悪を及ぼしそれを「人間だから仕方ない」という理由で正当化してしまえば、あらゆる攻撃行動が感情の起伏を理由に許容されてしまい、ヒステリックになったもの勝ちの世界になってしまう。そしてそれらが正当化され社会一般認識や常識として解釈されるようになれば、我慢の連鎖、虐げの連鎖が続く。今の中高年が自分たちの若年時の苦労をハラスメントとして若年者にぶつけていることは就職面接を見れば明らかだが、ああいう行為が人間の性質を理由に許容されるとすれば、シンギュラリティによって人間は淘汰されるべき存在であり、一切の犠牲者を出さない平穏を実現するためには、人間自らがルールを形成する主体の座を降りることが必須であるとすら思えてくる。

感情の起伏が激しい人は、なぜそんなにも気分が変わるのだろうか。なぜそんなにも他人の言動や性質に敏感に反応するのだろう。世界中に何十億人といる人間が、それぞれ違った脳を持ち、違った環境で育ち、生き、経験し、考える。明らかにベクトルが十人十色であり、自分の基準に相手が適合してくれることなどありえないのである。にもかかわらず人間は勝手に理想を作り出し、期待し、相手を精神的に束縛する。そして叶わない世界や他人に自らの非合理的理想の責任を覆い被せ、相手への怒りとして行動に移す。他人は絶対的に自己と異なる存在であり、共通認識や共通要素を見出すこと自体が不可能であり、自己の理想や満足は自己によってのみ達成されるという基本公式さえ頭に叩き込んでおけば、必要以上に他者と衝突することも他者に自己の感情を射影することもないはずだ。それができないのは、なぜだろう。そしてそれができずに毎日多数の争いと不協和、トラブル、ハラスメント、自殺が起こっているのであれば、やはり人工知能にしかそれらに終止符を打つことはできないだろう。