スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

個人にやさしく

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


ここ数年、社会に対する失望や人間の集合体に対する失望は増大している一方、個人に対する批判的な感情というものがほぼ起こらないようになってきている。たとえばネット上で活動している人に対するバッシングやケチは無数に散見されるが、個人的にはそういう意味もないヘイト感情、他人を蔑むような感情はあまり生じない。これもいいな、あれもいいな、と悪いところではなく良いところを見るようになってきている。飲食番組を見ても、出てくる店に対して否定的な意見を必ず言わないと気が済まない人が多いが、私はそういうことはしないようにしている。あくまでも自分が見聞きしたことの中で良いもの、良い要素を拾って自分の糧にしようと思うからだ。ケチをつけて批判しているだけでは何も満たされないし、よくある日本的な「相手を下げることで自身の卑屈な内面を正当化する」という行為に陥りたくない。

なにかを比較したり自分が優位に立っていないと気が済まない人は多いようだ。土地、考え方、肩書、趣味など、あらゆることについて、ステータス化することしか考えていない人たち。生きづらいだろうなと思う。誰がなんと思おうが自分が満足して納得すればよいと思えないのだろうか。私は自分を甘やかす人間だけれども、同じように他者に対しても寛大・肯定的でありたいと思っている。そのためには不要なネガティブ発言を控えることと、とにかく経験値をあらゆるものから拾い上げてやろうとするある種のエゴイズム的感情を持ち合わせておかなければいけない。

私は家事が好きなので食器洗いをすることが多い。私の妹は周りが忙しそうにしていてもヘッドホンをして無視して携帯に夢中になりテレビをずっと観ているような人間である。だから親は妹にも手伝うように促す。しかし、それが私にとってはマイナスなのだ。妹は不機嫌になりながら私の近くでイヤイヤ手伝おうとする。やる気がないしスキルもないので時間がかかるし作業効率も悪い、水道代も余計にかかるし汚れが残っていたりする。終わってからも親から小言を言われたことを引きずりずっと不機嫌なので家の中の雰囲気が悪くなる。このように、無理矢理何かを強いるとろくなことがないし、あくまでも悪い部分や欠点については徹底的に見逃す方が全体としてのメリットが大きい。加害行為などは別だが、何かをしない人やできない人には、それに参加しないでもらうことが最も最適な状態なのだ。こういう考え方なので、BIや生活保護など社会保障の徹底に私は賛成だ。イヤイヤからは何も生まれないと思っている。

話がそれてしまったが、批判することからは何も生まれない。批判しなければならないような壁があるなら、それを越えずに別の道を行った方が短い人生を楽しく生きられると思う。イラつきながら序列や人目を気にしても何も生まれないし、差異も選択肢の豊富さととらえて、自分で情報を取捨選択できることを楽しんだ方が良い。そんなことを考えながら生きているので、何かを強制されない限り、ほぼイライラすることはない。