スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

駅前のDINKS批判

恋人ができたり結婚したりした途端に性格が変わる人は多い。特に価値観の変化を前面に出してくるケースがこの数年で多く見られた。散々自分自身にコンプレックスを持っていて、人生どう生きるかはそれぞれだと常に余裕を持っていた人物が、恋人ができた途端に、恋愛もできないやつは何か欠陥があるといい始めた。離婚歴があり晩婚で子供に恵まれない期間が長かった人物が、子供ができた途端に、子供を欲しがらない人ってよくわからない。良い歳して子供がかわいいと思えないなんて心が狭い、卑屈だ、ひねくれているなどと子なし夫婦を蔑視するような発言を平気でしてくるようなケースもあった。人を変えるのはいったい何なのだろうと常に疑問は絶えないし、いわゆるスクールカーストやコンプレックスに執着心があった人ほど、それらを手に入れてからの自信満々な感じが著しい。

子なし夫婦を何組も知っているし、結婚しない独身主義の人も身近にいる。それら人物は私が見る限り誠実で人格にもまったく問題がない。私との交友関係も普通に続けてくれているし、性別や年齢を問わず友好的だ。それでいて価値観の多様性を認め、自分たちと違う人間のことを悪く言わない。関わっていてまったく害のない、デメリットのない人たちばかりだ。

こうした選択をした人間を目の敵にしようとする、いわゆる「自称健常人」の目的がよくわからないが、何度もそういう人たちの話を聞いてみると、結局は自分たちに自信がなくて、自分たちが正しいグループの一員であることを示すために、そうじゃない人をたたいているにすぎないことがわかった。世間体に雁字搦めになった人が、自由に生きるフリーターやニート、独身者、子なし夫婦について「あいつらは社会の責任を果たしていない!」と憤っている場面は容易に想像できるだろう。しかし、では社会の責任とは一体何なのだろう?仮定を作り子孫繁栄の繰り返しを全うすることが社会の責任なんだろうか?だとすれば社会の存続のために人間は生まれることになるわけで、人間のための社会から社会のための人間ということになってしまう。

子孫繁栄第一主義の弊害がここにある。労働至上主義や恋愛至上主義の根幹も、結局は人間中心システムの循環を持続化させることへの気持ち悪いくらいの固執によるものだろう。人間が中心、人間こそが価値のある存在、この常識を維持するためにあらゆる資源が投入され、世間体が形を成し、それを守ろうとするだけじゃなく他人に押し付けようとする人間が「常識」を凶器のように振り回す。長いものに巻かれることを価値の中心に置き、さんざん問題視していた事象をいつのまにか「それが世の中だから」と肯定し、それに仕方なく従って適応する自分自身に酔い始めればほぼ完成された状態だ。DINKS批判に対する気持ち悪さはネットの議論にとどまらず、身近な人間関係でも見られるようになった。残念ながら、学生時代に私が交友関係を築いた人間のほぼすべてが、DINKS批判に情動的に加担するタイプであろうと思われるし、距離を置いて正解だったと、最近の出来事を考えると改めて思う。