スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

わからないことは正義だ

あの人は良くわからない人だ-こうした言い回しはネガティブな要素として解釈される。よくわからない人=自分を開示しない人=ダメな人、とても言いたげな不満や、語気を強めてその場にいない人間を非難するような悪口大会が聞こえてきそうである。わからないことへの不寛容はこの社会では根強く、わからなくてもわかったように振舞うことが求められる。察することが美徳とされる文化、曖昧な指示を出しても部下のせいにできる文化、権力者がどこまでも権利を行使できるから、マウンティング欲求を満たすには最高の環境だ。わかったふりをすることを強いられ、わからなくても、誤解してもいずれの場合も叱責される。そんな光景が無数に生じている。

わからなくてもわかるように振舞うことが要求されるから、あの人のことはよくわからないという言い方は歓迎されない、よくわからないというのはまるで理解することを放棄しているかのような負のイメージがつきまとうからだ。よくわからない状態のまま自己開示しないことが非難される一方で、よくわからないまま平気でいる側も非難の対象になる。結局、適当なイメージ、その場の権力者が納得する勝手なイメージをもってこの人物はこういう人間だという結論が全員の共通認識になることが最適解とされてしまう。

世代間批判がまさにそれだ。ロクに理解もせずに相手を批判してしまうのは、結論を出さないと落ち着かないからだろう。今の若い人は良くわからないけど、もしかしたら私たち よりも優秀かもしれない、と評価する人は少数派だ。今の若い人は良くわからない=理解できない=悪い、と結論付ける人が圧倒的に多い。よくわからないよくわからないから「悪い」のである。自分たちが理解できていないのは「相手が悪い」からなのだ。恐ろしいと思う。世界中のあらゆる偏見や誹謗中傷はこれでできているといっても過言ではないと思われる。嫌いなことや生理的に受け付けないものについて正しく理解したり徹底的に勉強することは難しい。そんなことをしてまで嫌悪感をいだくものと対峙したくないというのが人間の本音だろう。一方で、それが何であるかわからないままにしておくことに多くの人は耐えられない、だからどうするか、偏見や固定観念、思い込みで対象物の定義やイメー ジを断定する。

すべてわからないのである。親子も友人も夫婦も恋人も知人も同僚も上司も他人も。そもそも、相手の内面を事細かに把握する機会を得るための十分な時間を私たちは持っていない。常に通過儀礼、世間体、労働、日常生活の消化試合に追われて、哲学的なことをああだこうだと語っていると変人扱いされるか暇人扱いされ、いずれも排除の対象となってしまう。だから馬鹿の一つ覚えで模倣社会に追従する。そこには偏見や情動、喜怒哀楽の発散を煽るために十分すぎるメディアの扇動が待ち構えている。

「よくわからない人だから可能性がある、よくわからない人だから面白い、わからないから面白い」あらゆる好奇心の原点である「わからない」が、この社会では完全な悪者に仕立てられている。それに人間の感情が重なり、私たちや社会は怪物となってしまった。