スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

ロボット

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/

ロボット――最近の私はこう呼ばれることがある。それは私に感情がないように見えるからだ。ストレスで周りが見えなくなることを極度に恐れている私は、極力どうでもいいことに感情を向けないようにしている。たとえば私は他人の身振りや言動に対して狼狽えたり苛ついたりすることをあまりしないし、身近な人に腹を立てることもあまりない。必要以上に人と衝突することは極力避け、自分の要望や要求も諦めて破棄できるものはいつまでも引きずらないで捨ててしまう。

私のことをロボットだと呼ぶ人は皮肉で言っているわけではなく普段の日常会話の一部レベルで冗談交じりに話しているので、私もまったく悪い気はしないし、仮に赤の他人が皮肉を込めて私をロボットと呼んだとしても、全く構わない。こういう態度が「ロボット」だと言われる要因なのだろうが、私は基本的に他人がどう思おうが他人がどう自分を呼ぼうが、それは他人の自由であると思っている。それが不満だとしてもそれを操作したり制御することは私には出来ないし、そもそも皮肉を言うような人に口で説明しても無駄だという前提があるからだ。

無駄だという前提――これが私の長所でもあり短所でもある。私がロボットのように人間らしくない一面があるのは、このような「諦め」が根底に潜んでいるためだ。対人関係において過去に苦い経験を味わっているため、他人に対して余計な要望を出したり、無駄口を叩くと災難が降りかかるという信号が常に行動を制御している。「口は災いの元」などという言葉があるが、私の日常生活(私的な時間以外の対人関係)に最も適している言葉といえる。

希望がなければ絶望もない………すべての感情は表裏一体という意味のこの言葉。どこかで読んだこともあるし、私自身もここ数年はこの考え方に支配されている傾向がある。余計な欲望や期待が、それが叶わない時の不快感や悲しみを生み出すのだから、最初から物事に過剰な期待をしないようにしてきたのは事実だ。学生時代、特に大学時代の大半をこの姿勢ですごしてきたし、震災経験や進路設計での苦悩から、さらにこの考えに強く染まるようになっていった。

私が鈍感なのは怒りの感情だけではなく、プライドや社会的地位についても当てはまるかもしれない。たとえば私は就職面接で何十回も不合格になったが、それについて残念に思ったり悲しんだりショックを受けたことは一度もない。もしかすると拘りがないのかもしれない。知人からも「執着心」がない、特に仕事などのパブリックなものに対する執着心がないと言われる。実際に私は仕事を選ぶ際にやりがいや社会的地位は全く考慮せず、公私混同を避けた普通の生活が出来る範囲なら給料などの待遇を再優先して職場を選んでいる。仕事は仕事、生活のためと割り切る典型的なタイプだ。だから第一志望の企業もなく、大学受験の時も第一志望の大学はなかった。第一志望の学科はあったが受験できなかった。