スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

スキゾイドが今の社会について考察してみる

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


良くも悪くも他人が気になる人は多い。他人の仕草、身振り、発言に過剰反応して感情をシンクロさせる事象がみられる。内面の発散に他人の非難を活用してしまう人も多いが、感情の浮き沈みがない状態からわざわざ他人に腹を立てるきっかけを探し、腹を立てている人も多い。SNSなどで他人を執拗に叩く文化は一体どちらに属するだろうか。

些細なことで気持ちが浮き沈む人は少なくない。どうでもいいことにイチイチ粗探しをはじめ、自分に害が及ばないどころか誰にも害が及ばないことにさえ「生意気」「うざい」というケチをつけて攻撃の免罪符にしてしまう。電車内で中高生がクラスメイトの悪口を大きな声で言って盛り上がっているのを見ると、絶望しか感じない。

他人が気になるのはなぜだろう。この根本的な疑問に対し、意外と答えは身近にあることがわかる。テレビだ。私たちはテレビで多くの人を見る。多くの人の多くの振る舞いを見る。それに対して一喜一憂していないだろうか。芸能人の好き嫌い、特集される飲食店の料理に対する否定的な意見、不快なシーンが流れるドラマに文句を言いながらもついつい見入ってしまう習慣、そんなことを繰り返していないだろうか。嫌なら見るな、それだけでストレスを削減できるにも関わらず、自分が嫌いなものに進んで近づいていく。

自分が嫌いなものにあえて近づき、非難する心理は学校でいじめが発生する心理と同じだ。実害がなく、無縁であるものを叩くことで何かが得られるのだろうかと疑問に思うが、得られる唯一のものがあり、それは征服感だ。他者を非難することで自身が相対的に優位であり、正当であり、常識であることを認識することができる。世間体に抑圧されて生きていることへの鬱憤を晴らすには最適なのである。

成長時代を知っている世代や家庭・社会的地位を持っている人々は、往々にして好き嫌いがはっきりしている。何らかの価値観・イデオロギーの側に属し、好き嫌いを前面に出すのだ。彼らは「どっちが好きか」という議論が大好きだ。彼らに対し「どちらでもよい」という回答をしてはいけない。ルールで自らの方向性を規定し、優劣や善悪をはっきりさせることによって生き残ってきた世代だからである。

何も持たない世代はイデオロギー志向が弱い。自分は自分、他人は他人と割り切っており、他人が自分と違っても、世間が自分と違っても気にしない。死んだり迫害されない程度に社会に馴染み、自己と他者を切り離して考えることができるからだ。だから相手への過干渉を避け、個人主義と揶揄される生き方を重視する。

「世間が許さない」「世の中で生きていけない」という言い方を好む大人は多い。シニア世代にとって「世間」の存在は好都合だ。「私が許さない」ことを「世間が許さない」ことにしてしまえば、他人を非難することが正当化されるからだ。さらにいえば「世間」や「社会」で「生きていけない」ことの何が不都合なのだろうか。「生きていけない」のであれば「世間」や「社会」を変えればいいだけのことである。科学や法律がそのように進化したように、価値観の変化も常に迎合され、許容されて然るべきだろう。

今の日本の価値観はバブル世代で静止している。世間様の恩恵を金銭的に享受できた世代が、抜本的な社会の白紙改正を拒み続け、環境の変化を度外視した順応を次世代に要求した結果、生命の買い叩きが起こった。倫理観を失った人間たちが経済第一主義を掲げ、資本家に人権を委ねた結果、過労死が社会問題になり、殺人的なハラスメントが横行している。凋落する人間に人工知能の発展が追い打ちをかけ、人間の価値が暴落した。もはや人間は情緒不安定な劣化ロボットでしかない。

役割が終わったのである。生産的・建設的な活動ができなくなったから、他者を非難したり横並びの我慢比べをするしかなくなったのである。資源が減る中で少数の既得権者が富を独占している状況に誰も文句を言わない。資産家の継承者が豪遊して暮らすことをマスコミは「セレブ」と称賛するが、リストラされた中高年・非正規雇用の若年層・貧困家庭の生活保護受給者に対して人々は蔑視を貫いた。こうした「忘れられた」人間が自ら命を絶っているのが今の社会だ。

攻撃の対象は常に弱者なのである。少数の強者の下で弱者同士が椅子取りゲームを繰り返している。それは終わることを知らない。労働基準法を逸脱した企業に勤めている会社員を見れば一目瞭然だ。彼らが目を光らせているのは社長ではなく同僚だ。同僚が休暇を取得したり楽をするのが許せなく、それを監視している。その間に経営者は私腹を肥やし続ける。

金額ベースで見れば貧乏人が社会保障を求めることなど微々たるものである。にもかからず、その財源が税金であるとわかった瞬間に形相を変えて叩く。常に矛先は自分よりも弱い人間なのだ。高齢者が若者を叩くときに「今の若者は我慢が足りない。昔は戦時体制でみんな我慢した」と言うが、悪いのは「国民に我慢させた政府」であり「若者」ではない。そんなこと少し考えれば明らかなのだが、悪者は「同じ我慢をしない若者だ」と断定してしまうところに、この国の致命的な教育水準の低さが見て取れる。

同僚が有給をたくさん取得することに腹を立てた労働者がいたとする。彼は同僚を憎み、「俺はこんなに働いているのに」と非難するが、「不公平にこんなに働かせている」悪いやつは彼を監督する管理職だ。そんなこと少し考えれば明らかなのだが、大卒で大企業に勤めている人間でさえ、この手の我慢神話に陥り頓珍漢な方向に怒りをぶつけていることが多い。

これが今の人間中心社会だ。とりわけ日本人は根性論が作り上げた理想と過去の栄光への憧憬が大きすぎて、どうしようもない認知の歪みを生じさせている。24時間テレビを見ればそれは明らかである。理解できるはずがない他人の内面に干渉し、勝手にストーリーをでっちあげ、その通りに相手がいかないと勝手に機嫌を損ね、勝手にマイナス思考に陥り、勝手に情緒不安定になる。すべてが勝手なのである。

日本の不幸に終止符を打つためには、日本人が終焉を迎える以外ないだろう。幸いなことに、この国の人口は減ってきている。人間の価値を軽視した古い世代の人々のおかげで、社会が荒廃し、生まれるに値しない、あるいは生まれても幸福になれない生命が増加を続けている。国家維持のために生を全面的・無批判に肯定した嘗ての価値観は姿を消し、若者は子孫繁栄を放棄するようになりつつある。これはもしかすれば人工知能による最も純粋な自然淘汰なのかもしれない。