スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

「死にたい」と「死ね」

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


精神的に心を疲弊する人が多い。「死にたい」というつぶやきが世の中に無数に存在する。「死にたい」という感情、それが人間関係から生じるものなのか自身の内面から生じるものなのか、定かではない。死にたいというメッセージや追い込まれに対して周囲がフォローしなければならないことは自明だが、この「死にたい」にも種類があるように思う。

過労な人間関係で追い込まれる苦痛一色の「死にたい」はまさに死が迫っているといえる。死に逃げなければ自らが潰されてしまうだろう状況で、まともな状況判断ができないパターンだ。だから電車に飛び込んだり、建物から飛び降りたりしてしまう。死ねるとは言え苦痛を伴う行為に飛び込んでしまう、自分が悪くな いのに自らが死ぬという結論を出してしまう。苦痛の渦中にいるからこそ、その苦痛が継続することから瞬時に逃れたい心理が働いてしまう、と個人的に勝手に思っている。

それに対して、思い通りにならないから「死にたい」という場合や、欲望が叶わないから「死にたい」といって取り乱す場合がある。これと上に書いた自殺を同じ扱いにしてしまうことは危険だ。たとえば、妻や夫が思い通りにならない、恋人が思い通りにならない、親や子が思い通りにならないから「死にたい」というのはもはや過剰な幸福欲求であり、それを満たされないと死ぬと宣言することで、事実上、周りの誰かの人生をつぶしてしまう。

たとえば、家族全員に手厚く介護されていても「私は昼間取り残されている、不幸だ、死にたい」と嘆く老婆がいたとする。この場合、死にたいといわれて何ができるだろうか、誰かが仕事を辞めて老婆の面倒を四六時中見るとしよう。その役割が嫁になってしまう不幸なケースが多いが、仮に嫁が四六時中面倒を見ても、今度は息子が構ってくれないから死にたいとなるのが見えている。

アダルトチルドレンのケースはどうだろう。様々な幼少期の欠乏を引きずり、不幸で同情すべき存在であることは事実である。しかし、アダルトチルドレンは100ある悩みの内1つでも解決していないものがあればそれに執着する。それに執着し「死にたい」と呟くかもしれない。完璧じゃないと「死にたい」のである。

アダルトチルドレンに結婚 を約束させられた挙句、親への依存を捨てきれず婚約破棄された知人がいる。知人が精神的なケアの受け皿になり、すべてを背負ったが、結局求められるのは「もっと」「もっと」だった。過大になった要求をこなすこと、それに奔走することが愛情だと相手から認知され、それができないと「死にたい」と言われる始末。この知人は最後まで耐え抜いたのだが、結局最終的には「親を見捨てられないからあなたとは結婚できない」という返事だった。

「死にたい」という言葉は使用法を誤ると「死ね」と同じ効果を持ってしまう。「死にたい」と「欠乏」を同じレールの上にのせてしまうと、「死にたい」の矛先が「不満の解決」になり、「不満の解決」が無限に続く。不満は決して終わること がない。完璧を求められた人間は他人にも完璧を強いるし、知的好奇心や趣味などがなければ人に依存する。不満を作り出し、欠乏に執着し、それを他人に強要する。それが「死にたい」という4文字で出力されてしまうことがある。

「死にたい」は多様だ。全部を同一視すると大変なことになる。99点を100点にするために「死にたい」を使う人もいる。とても危険な言葉だ。自分の感情くらい自分の中で整理したい。