スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

N700と人間

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


東海道新幹線N700系という車両形式がある。日本の大動脈と呼ばれる東京~名古屋・新大阪の間を高密度で運転する東海道新幹線の8割以上の電車がこの形式で運転されている。洗練された内装、客室設備と最新鋭の制御装置を兼ね揃え、走行時の快適性や安全性は歴代新幹線の完成型であるといわれている。昔は0系や100系300系などといった形式がそれぞれ「こだま型」「ひかり型」「のぞみ型」などと呼ばれて趣味的にも親しまれていたようだが、今では引退間際の700系を除いてすべてがN700系で運転されている。座席数や最高速度も徹底的に統一され、一形式で歴代車両のすべてを置き換えるほどに、その完成度は高い。
 
新しいものが万全なスペックを備えて一気に古いものと世代交代をするというのは、機械の世界では極当たり前なことである。交通機械のみならず、生産機械や情報端末なども、万能な最新型が従来型の上位互換となってその歴史を更新してゆくこととなる。その背景には「開発の進化」が常に伴う。製造する技術や環境の絶え間ない前進が、よりよい生産物を生み出すことは普遍的であり、開発を怠ればその影響は生産物に波及する。この原則は人材開発・育成について考える際にも重要なものとなる。
 
機械創造の理屈で考えれば、労働社会において若年者が高度な能力を備えて勤労開始し、旧式の人間を淘汰してゆく現象も十分に想像できるだろう。実際に情報産業の普及により一部の企業では若年者と高齢者の立場が逆転しているところも少なくない。しかしながら、今の日本の労働環境において、年功序列の存在は決して無視できるものではないし、年齢が近い者同士の上下意識も根強く、立場と実力を勘違いしたパワハラ職場いじめなども蔓延を続けている。排出される若年層についても、上司に追従する程度の能力にとどまっている人材が多く、双方ともに機械創造の原則に沿っていないのが現状だ。
 
しかしながら、新入社員がN700系のように万全な装備をして古い人間を淘汰・駆逐することは本当に不可能なのだろうか。16年という膨大な時間を教育に充てている現状を考えれば、それは決して不可能なことではないし、現在のような情報社会においては、知識を取得することについて個人レベルでの格差はほぼ皆無といってよく、時間経過によって差異が生じる唯一の要素が経験であろう。画一化された義務教育では困難であるかもしれないが、少なくとも高校や大学など、ある程度の自由が許された教育環境において、先々に必要とされる知識や能力を事前に網羅することは不可能ではないし、将来的に必要となるスペックを最初から予見的に身に着けておくことは可能なはずだ。とりわけ専門知識を取得しない技術職以外の就職においては、経験を能力で補完するという点において、事前に先代を淘汰できるレベルの知能を開発することで、不要な年功序列や派閥形成、露骨な上下関係を打破するような対抗力を身に着けられることは想像に難くない。
 
にもかかわらず、実際には若年者は無能な状態のまま社会に出て、年功序列の理不尽にただ忍耐しているだけというのが労働者経験の大半であり、上述の交通機械のような世代交代は露骨には起こらない。大学教育も旧態依然の理論しか扱わず、教員も自らの立場を維持するためだけに働いており、学生が高い能力を身に着けることに重点を置いていない。それどころか、持論を忠実に賛美するだけの奴隷を求めているばかりである。つまり、既得権を持っている人間が下剋上を極度に恐れているのだ。若年層が情報化と効率主義の極みを武器として老いぼれを駆逐するシナリオを受け入れることができない。自分たちが生涯に亘って有利な立場を守りたいから、若者が能力をつけて対抗馬となることを拒み、学習指導要領や授業や単位といったくだらない枠組みで学生の天井を設定してしまう。学生側も、楽な道を用意されているから思考停止の選択にばかり走ってしまうのだ。大人や政治家の思う壺といえる。
 
大学教育や高校教育が崩壊していることがこの問題の軸であり、加えて企業が大学に何も期待していないことやバブル時代に顕著になった学歴のブランド化も大きな要因である。欧米では学士レベルの学歴が個人の能力差を定義することはまずありえないのだが、日本の場合は中身のないブランドこそが嗜好品となっており、ネームバリューの独り歩きが当たり前になっていることから、教育の中身については論じられずに、すべてがアクセサリー化する。大学改革を論じる際に入試ばかりが話題になるのも、入学してしまえばよいと考えているブランド志向の産物だ。つまり、学生も世の中も企業も大学教育には期待しておらず、アクセサリーとしてのアンテナにしかなっていない。その世論と、教育産業を通して利益を得たい学校法人の利害関係が一致したといえる。この時点で少なくとも文系学科の存在意義は崩壊したに等しい。
 
本来であればバブル崩壊後に大学の価値が暴落したことを契機に、大学教育の在り方が見直されるべきだったのかもしれないが、景気悪化とIT化による労働構造の変化に反して、大学のマンモス化と旧態依然の教育方針は継続し、結果的に社会で必要とされない学生を量産することになった。この結果、自己啓発などといった科学的根拠のないビジネスが横行し、就職活動と大学はレジャーランドと呼ばれる巨大な茶番劇の舞台となった。医療系と資格系学科のみが専門性と職業への直結という強みを残し、その他の多くの学科系統では一部の最上位校を除いて大学教育が形骸化し、機械のような最新鋭万能型ではなく、前例踏襲型の既得権追従主義に偏重した量産型労働ロボットが生まれるだけとなった。雇用不安と画一型の教育、帰属意識の過度な横行によってブラック企業が平然と生き残り、ブラック大学が平然と生き残り、質の悪いものがいつまでも淘汰されない老人一強の経済環境が固定的になってしまったのだ。
 
本来、役目を終えたものは第一線から退くのが効率的であり、人間の仕事が機械に奪われる変化は概ねこの法則に従っている。生産性の高い機械によって多くの人間の仕事は失われた。しかしながら、多くの老人が人脈ごっこをする機械は世代交代を免れて残っているのである。教育、社会、福祉、経済、科学とあらゆるものが影響しているが、第一には一億総無能化政策による若年者の能力頭打ち政策が大きいだろうと思われる。人材開発による下剋上を恐れ、前例踏襲と年功序列にメスを入れられなかった日本は、いつまでも0系が0系を置き換える社会構造を維持することしかできないだろう。同じ電力を消費する機械だけが量産され、消費できる資源である経済が先細り続ければ、同じサイクルは維持できなくなり、その結果が今の世の中といえるだろう。