スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

教師「途中式を書かない人は0点ですよ」

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


恋愛至上主義のようなものが確かにある。私も恋愛をしないことを咎められたり、無理やりにでも恋愛対象を見つけろというような類のことを言われることがある。恋愛しないと絶対に結婚できないから、とにかく彼女を見つけろというようなことを言われたりしたこともある。

この「恋愛する」という行為が明確な定義ではなく、恋愛をしていることが信頼関係が構築されていること、つまり婚姻関係になるために必要な人間関係を構築できていることと同一ではないので、恋愛をするというのはあくまで「通過儀礼」のようなものなのだろうか。だとしたら、たとえば式典には出席するとか印鑑は必ず押すとか、一文字でも誤字があったら最初から作り直すとかいう形式主義の徹底なのだろうとも思える。

そして最近の恋愛ポエマーソングに描写される恋愛は、その大半が恋愛ではなく恋心であり、自分の一方的な気持ちをわかってほしいというエゴイズムと理想主義の混沌とした一人芝居が展開されているように見え、またそれがかなわないことによって病んだり荒れたり推察を強制するような素振りをしてみたりそれを可愛いことの代名詞だと歌ったりと、やたら台本が多いような気がして仕方がない。

そして実際に恋愛中毒者を見ると、やはりそれが結婚のための土台や人と人との信頼関係構築作業に思えるものはほとんどなく、空虚感の埋め合わせや夢想獲得による物語構築、その中で演じる自分自身への陶酔のように思えてしまう。それが他人を巻き込むようなこととなれば、喜怒哀楽の正当化と一連の行為を他人に強いる横並び社会のようにも思えるのだ。

だから恋愛は労働と似ていると思う。日本の労働観は対価や金銭を対象としないやりがいという夢を持つことを正義とする側面があり、本来の目的である生活の維持だけを目標設定することは不誠実であるといわれることがある。だから付き合い残業やサービス産業・課外活動などを共有したり、全員で足並みを合わせることを美徳とする。恋愛も同様であり、恋愛を経て男女間の信頼関係を構築し、各々が納得できるような幸福な家庭、家庭に準ずる居場所を得ることではなく、恋愛をすること・恋愛していますと周囲に情報提供できること、恋愛のモデルルートを模倣することが目標になっているように思う。

恐らく、社会で根拠なく神格化されているものの多くが労働や恋愛と同じような性質をもっているんじゃないだろうか。する意味・しない意味、必要性などは度外視され、通過儀礼の1つとしてそれを遂行することに大きな価値が置かれる。恋愛を経ない結婚はあり得ない。最初から家族のように関わってきたからといって、一度は他人として、男女として、「みんなと同じように」恋愛すべきだ、という主張は、明らかに簡単な問題でも途中式を書かないと点数をもらえない小学校・中学校時代の数学や、黒板を丸写ししたノートや漢字練習を100回書きしたドリルを提出させる国語の授業、残業時間数で努力量を見極める人事査定に似ている。