スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

教室ディストピア

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


義務教育時代、体育などの実技科目で、チームごとに活動する際のメンバー選定を行うことがあった。まず各チームのリーダーになる人間が選ばれる。これは立候補、推薦のいずれも許される。リーダーが決まったのち、教員が驚くべき発言をしたのである。

「はい、じゃあ1班から4班のリーダーの人はじゃんけんしてください。勝った順に好きな人を一人ずつメンバーに選んでいってくださいね。」

1班の佐藤は早速自分が一番仲が良いクラスメイトを指名した。次に2班の田中がスポーツに秀でたクラスメイトを指名した。3班の高橋もそれに続いた。4班の鈴木は優柔不断ながらも優等生の一人を指名した。このチームは男女混合である。その後も4名のリーダーがじゃんけんの順位に従って自分が好きな人間を順番に選別してゆく。このクラスは28人、つまり1班に7人が所属する計算だ。教員はこうしたやりとりを「クラスが一丸となった状態」だと微笑ましく眺めつつ、場を盛り上げるための声掛けに終始していた。

この教員は終始、班のリーダーと選ばれた班員の指名が書かれた黒板だけに夢中になっていた。まるでそれがクラスの一体感を象徴するものであるかのように。次々と選ばれるチームメンバー、指名の声が上がった瞬間にざわつき、盛り上がる学級内、まるで地域の祭事のような雰囲気に、教員は酔いしれていたのだろう。

私は気づいていた。これはちっとも「一丸となった状態」でも「微笑ましい状態」でもないことに。選抜が3周目に突入したあたりから、穏やかでない声が聞こえてきたのである。

「次誰にする?」
「あいつはどうかな」
「えーあいつ使えねえよ」
「○○さんはどう?」
「私あの人あんまり好きじゃないんだよね…」

残り者の処理に困惑するリーダーたち、それに便乗する「すでに選ばれた班員」、まだ選抜されていない生徒たちが自分達への嘲笑を耳にしながら、空気を読んでニコニコしていた。

「じゃあこいつでいいや」
「んーこの人で妥協しよっかな」
「いらねー」
「うちは4人チームで良いよな」

5回目以降に指名された生徒たちは、班に加わっても誰からも歓迎されていなかった。一緒に頑張ろうとか楽しもうとか、そんな声さえもかけてもらえず、ただ冷たい視線を浴び、周囲の野次馬がそれを見て笑っている。教員は相変わらずそういう笑い声のする方角しか見ていない。

30分ほどでチーム編成が確定し、次週以降から実技系科目はこのチームごとに活動することになった。教員はチームがスムーズに決まったことに満足げだ。「さあ、どのチームもみんなで協力して仲良く活動しましょう!」教員の一言でホームルームが終わった。黒板には「互いを尊重する仲間たち」というスローガンが貼られていた。

私はどのチームにも所属しなかった。実はこのクラスは29人なのである。トラブルや面倒を避けるために、私はホームルーム前にこっそりクラスを抜け出し、廊下の窓ガラスを少しだけ開けてこの茶番を観察していたのだ。担任教員はこのクラスが29人であることさえもわかっていなかった。それもそのはずだ。この教員にとってチームメンバーに早い段階で選ばれた16人以外は存在しないに等しいからである。誰がどんな表情で、どんな気持ちで、この場に滞在しているのか、そんなことなどどうでもいいのである。

幸いにも、私のサボりは誰からも責められることも気づかれることもなかった。認知された上で歓迎されないことと、最初から認知されないこと、どちらが苦痛かは人ぞれぞれであるが、この時ばかりは組織集団や社会から自ら退場することが精神衛生上かなり有効であると感じた。予備校の時間が迫っていたので、下校の鐘と同時に駅方面へ向かった。翌日も、翌週も、翌月も、同じように何にも関わらないことで平穏に過ごす。誰かに非難されたこともない。

スクールカーストが学生の強弱関係を固定化し、いじめや自殺の遠因になっていることは指摘されているが、その構造は専ら子供たちの人間関係が主体となって作り出しているようにとらえられがちである。しかし、ホームルームやチーム活動が特定の生徒が権力掌握することを許容し、マウンティングを正当化・恒常化させていることに私たちはあまりに無自覚である。上記のように人が人を選抜することが何の違和感なく行われ、それは強弱関係の固定化に拍車をかける。なぜか後の方に選ばれた生徒たちは委縮している。対等な立場にも関わらず、何ら引け目を感じる必要がないにも関わらずだ。選別に際し人を侮辱したり小馬鹿にしたりすることも容認され、むしろそれがエンタメのようにもてはやされる。肌の色で人種差別することと何ら変わらないのである。

相手を貶めることで笑いを誘う奇妙な文化がこの国には存在する。偶然かつ不可逆的に道化の役目を与えられた人間は、笑われながら自らを笑い、首をつって死んでいくのである。笑顔が絶えない教室に充満する笑いは、絆を盾に正当化された選民思想による嘲笑だったのである。無碍な一体感のため、学校の・社会の・政治家の・大人の・国家の威厳のために行われる個人や末端の犠牲はどこまで拡大するのだろうか。