スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

調味料の呪縛

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/

テレビを見ながら食事することが食育上悪いことだと言われていて、それは行儀の問題に帰結されるが、実際はそれ以上に、食に対する関心・感謝がなくなるところにあると思う。作り手が材料や味を考え一生懸命作ってくれたことを感じない食事の仕方は、単なる加工品としての料理の陳列として食事を認識する方向に人を誘導する。

私の家族もその典型。テレビを見ながらテレビに夢中になっている妹は、ずっと黙って食事をしている。食事をしているというより、テレビを見るつまみとして食事を摂取している感じに近い。だから「美味しい」とも言わないし、料理について話題にすることもしない。

父は味に対し神経質で、必ず「味は?」と母に聞く。食材や料理そのものの味付けよりも自分で化学調味料を添加し、満足する。「○○には○○」という具合に、調味料を付加することに満足感を覚える。「この味で食べれば美味しい」と語る。作り手の味付けを褒めることもなければ、食材の良さを褒めることもない。美味しいということもない。ただひたすら、ビールが冷えていることや、自分好みの決まった味付けになっているかだけを気にする。「これ味は?」しか言葉を発しないので、当然母も機嫌がいい時は余裕をもって対応するが、そうじゃない時は険悪な雰囲気を醸し出す。

父はこの他にも食材の在庫や賞味期限に過剰にこだわる。牛乳を2本買ってきたら、古い方から開けないと気が済まない人間で、どうせ期限内にどっちも開けるのに、逆の順番にすると落胆を魅せる。これはこうだという決まり事やルール、自分の中での物語を作り、それに埋没してしまうところは、残念ながら遺伝的なものだと思われる。世の中への期待を捨てきれない割に悲観的であるのも、同様だ。

私は基本的に好き嫌いがなく、出された味をそのまま楽しめるタイプで、こだわりもない。食事中は食事に集中したい考えなので、テレビを見ることもない。出された料理を食べながら美味しければ美味しいというし(基本的に不味いとは思わない性格なので美味しくないということもないが)、新鮮な食材だと思えば、スーパーや生鮮市場の話を切り出す。

母も楽しい食事の最中に就職の話や労働の話、介護や相続の面倒な話を切り出すことがある。テキパキ割り切って考えればいいのだが、過去に決着がついた話を蒸し返す。家を売る、墓を処分する。面倒なものをスリムにして余生を楽しむような意思を何度も見せているくせに、結局は今ある背負うものにこだわってグダグダと人生を不満モードにとらえていく。私みたいに子供も家も車もいらないという明るい諦観に至っているわけではないし、これまでもまともに生きてきたからこそ、社会の正義・社会の義理などにこだわりたいのだろうか。

この人たちにとっての正解は、結局、自分たちと同じ人生を、考え方を子供が追従することなのかもしれない。正しかったバブル、正しかった成長期、働いて稼いで世帯を持ち、文句を言いながら子供を育てる、それが正解なのだろう。けれども、その先に、上に書いたような愚痴や文句や不満や視野狭窄の毎日があるとしたら、そんなものは不幸を招くしがらみにすぎないと私は思う。誰のせいにもできないもたざる人生、これもまた気楽なものだと、心底思う。

とにかく他人の制作物についてはポジティブな意見だけを並べる。それが習慣になると意識せず褒めることが習慣になり、結果的に対人トラブルを起こすことがなくなる。少なくとも、家庭内では「褒めるのはタダ」を遂行するだけで大抵の問題は片付くのだ。それを完璧主義や外のイライラのはけ口にするために減点法でしか相手を見なくなるから、夫婦や親子の仲がおかしくなるのだと思う。

これは料理以外でも同じだ。他人の行動・買い物・趣味・生き方・考え方、適当に全部いいねいいねと肯定しておけば、絶対にトラブルにはならないし、どうせ険悪になってイライラするのがわかっているのに、敢えて否定的な意地の悪い態度をとること自体が、もはや病気なんじゃないかといえる。