スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

マウントクリスマス

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


クリスマス。楽しいはずの行事。チキンを食べたりワインを飲んだりイルミネーションを撮影したり。今から本当に楽しみだ。本音である。年末年始も同様だ。けれども、これらの行事が楽しくない人や楽しんでいてもそれをステータス競争の道具に置き換えている人が多い。

ハロウィンやバレンタインもそうだが、なんだか行事をステータスに置き換える文化が強まっていて、残念だなと思う。クリスマスも、誰と過ごそうが一人で過ごそうがどう過ごそうがどこで過ごそうが、ちょっと普段と違う雰囲気の街や季節を楽しめばいいんじゃないかと思うのだが、そうでもないんだろうか。今はネットもあるんだしクリスマスゲーム実況などもある。一人で入りやすい店も多い。もちろん誰かと過ごすに適した場所も。

恋人がいないとクリスマスや行事が楽しくないという人は多いようだ。恋人と夜を過ごすのがクリスマスの正義であるかのような。逆に、その条件が満たされない人間は負け組みたいなイメージがある。本当に勿体ないと思う。

実際に恋人と過ごしている人は、なぜクリスマスにわざわざ恋人と会うのだろう。どこも混雑しているし平日かもしれないクリスマスイブにわざわざ夜を一緒に過ごす意味はなんだろうか。年に一度しか会えないわけじゃあるまいし、結局は特別な演出をすることで自分たちの承認欲求や自尊心を保っているのかなと思ってしまう。

一人だって恋人とだって家族とだって友達とだってどこでだってクリスマスは楽しめるし、どんな過ごし方が正解であたかもそれをみんなが羨ましがったり目指したり人と自分を比べたりすることが良いみたいな空気になっているのが、日本特有の息苦しさだなと思う。

恋愛がマウンティング要素になったのは一体いつからなんだろう。以前はクリスマスバレンタインなども純粋に楽しいイベントや季節としてイメージされていたはずだ。それなのにいつのまにかマウンティングの道具になっている。

逆にそれまでのマウンティングの道具は一体何だったのだろう。恐らく社会的地位や不動産だったのかもしれない。常にマウンティングは媒体を変えて繰り返される。余裕がなくなればなくなるほど、通常であれば純粋に楽しめるものが楽しくなくなってゆく。序列や承認欲求のためだけのツールとなってしまう。出生や子孫繁栄、人類の存続ももはやこの類になっているような気がして嫌な予感がする。