スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

物語を強いる世界

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/

この社会は、文章を無駄に長く書くことを過剰に求めていると思う。レポート、論文、課題、報告書、書かなくてもいいことを分量を設定して他人に強いる。何も感動しなかったものや何も発見がなかったものについても、無理矢理文章にさせる。本来であれば、こういうものは自発的に文章を書こうと思った時点で書くものなのだが、どうしてもそれを他人から強制されることが多すぎるように思う。


レポートを書けずに大学を中退した知人がいる。私は大学時代にレポートをあまり書かなかったのでその苦痛を当事者目線で共感することができなかったが、労働者になって本当に無意味なことをまとめるために仕事のための仕事として文章を書くようになってから、その人物の苦痛を理解できるようになった。完全とは言わなくても、なぜ学校を中退するほどにまでそれが心理的負担になるのかについて、納得することができた。


何かを考えたり感じるからこそ自分の言葉で反応できるのであって、自発的ではない強制的な何かによって動いた時間のことを文章にまとめるのは難しい。運動会や文化祭、学校行事の感想文を書くのが難しいのもその理由だろう。あたかも自分が望んでそれに参加し、建設的な何かを得たとか、組織にコミットすることの重要性やすばらしさを認識したような話の流れが期待され、結論が決まっていることに対して個性を求められ、それを出力しなければならない。誤魔化しのきく高校以下の課題ならまだしも、単位や人生がかかってくる大学や労働でそれを課されると、とんでもなくしんどいものがある。


何かを感じたら書けばいいよ!くらいに寛容になることができたなら、社会から無駄な文章は消え、有意義なものだけが残るのではないかと思う。文章のための文章、作品のための作品、見世物のための見世物、仕事のための仕事、レポートのための実験、それを正しいと思い、遂行したい人が多いことは決して否定しないし、介入するつもりはないけれど、できればそういうものと距離を置いて普段から過ごしたいと思うし、書きたいことを書き、残したいと思ったことを残すような自由が担保された環境に身を置きたいと思う。