スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

潜在的攻撃性

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


先日、子どもセンターの夏休みイベントの手伝いをする機会があった。私は受付係だったので、子どもたちに挨拶や声掛けをしながら困ったときに館内を案内する程度だったため、その余裕を使って子どもたちの様子を観察していた。

子どもたちは無邪気に見えるが、実際にはそうではなかった。読み聞かせイベントだったのだが、朗読ミスや内容へのケチ付け、批判的な物言いが目立った。確かに挨拶とかセンターの職員の人たちへの態度も普通なのだが、やっぱりどこか、建設的なものを否定するような行動パターンができているように思えた。

そんな空気は確かに自分の小学校時代もあったなあと思う。何か授業中に発言すればそれにヤジを飛ばしたり 冷やかしてきたりする連中がいた。真面目に何かに取り組んだりしても、いい子ぶっているとか言われるし、素直な意見・感想を言ってもやはり適当な言葉でそれを否定されることが多かった。

そしてそういう発言をする子供が決して恵まれない家庭の子供だったり機能不全家庭の子供だけではないということも今ではわかっている。親の愛情を普通に受け取って育ったとしても、そういう風に出る杭を打つ、建設を否定で返す、褒めるのはタダなのに絶対に褒めないといった、誰も幸せにならない空気づくりに奔走する人がどの空間でも多数派だった。それは中高でも変わらず、大学になってようやくそういう前向きな姿勢が市民権を得るようになっていったのだと思う。

組織から解放されるのが大学だとすれば、組織拘束とネガティブな言動はリンクする。セロトニントランスポーターS型が9割以上に上る日本人はもともと不安要素が強く、不安要素が負の結束と排除の論理を生み、それが否定的で狭い価値観につながるという理屈はこれまで何度も見てきたが、結局この傾向は幼少期に完成しつつあるもので、学校やコミュニティがそれを助長しているのではないかという推測に至る。

健全な家庭に育って愛情を受けても、親が誰かを見下していたり、他社評価が低く否定的な意見を言いやすい親のもとで育つと、子ども自身の得る愛情に関係なく、子どもも排他的な性格になるのかもしれない。だから、あるものには異常なまでに崇拝信仰を向け、その範疇にないもの についてはまるでガス抜きのようにバッシングを行う。原発避難者へのいじめも親が子供に価値観を植え付けているところが大きいし、外国人への憎悪感情も同じようなものだろう。

日本人は自分に直接危害がない対象に異常なまでの嫌悪感を持つ生き物だなと思う。たとえば、アジア人を過剰に嫌う人が少なくないが、アジア人が一体何をしたのだろうか。少なくとも、中国人を嫌いだという人の多くが、中国人から直接の危害を加えられた経験を持たない。観光地で騒いでいてうるさいというのなら、電車内で騒ぐ日本人学生の部活集団の方がよほど実害を伴うし、酔っ払って騒ぐオッサンや会社の上司の方が、直接の脅威になっているはずだ。なのにそれらへの怒りは持たず、まったく日常生活で関係のない外国人に憤るのはなぜだろう。

見えないものに憤ることを私はまずしないし、直接危害を加えてこない対象には興味もあまりないので、干渉する気さえも起きない。しかもそれについて直接のやりとりがないのに勝手に自分の中で憤るなんて精神的自傷行為と同じではないかと。勝手な敵を作って、用もないのに腹を立て、ストレスをためる、それで楽しいなら別だが、だいたいのヘイト人間は年中イラついている。もちろん、凶悪犯罪や非行の根源には憤りや問題提起が必要だが、実態として害がないものになぜそこまで固執するのだろうか。

逆に言えば、人間への関心がほぼなくなったからこそ、私はこんな性質でもストレスなくお気楽に生きているのかも しれない。趣味や自分の中にある疑問欲求興味をひたすら満たし、一人でできないことは望まない。それが唯一無二の安定策なのだろうと最近は思う。