スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

当事者をやめること

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/

嫌いなことや苦手なこともそれを当事者でない立場で行えばある程度気楽になるものだなと思う。私は学生時代に就職活動をしている人の情報収集を手伝ったり、どんな内容の面接や試験があるかリサーチするために同じ試験を早い番号で受けたりWEBテストを代行したりしていたことがあった。就活自体は人々を精神病院に追い込むレベルに劣悪なものだが、実際に代行者として当事者意識を喪失しながらそれにかかわっていると、意外にも精神を病まずに済むのである。同じことが人生におけるクソみたいな大衆行事についてもいえるのではないかと思う。義務かつ当事者であるから苦痛なのであって、誰かの代わりだと思えばなんてことはないっていうことは多い。つまり人間関係が固定的であり自らの行動が固定化されて他人に中止されていることが、あらゆる苦痛の根源なのではないかと思っている。

私の場合はそういう気持ちで採用面接や試験を繰り返していたし、社会で活躍したり他人に承認されたりすることへの執着が22歳の段階で消滅していたので、幸いだったかもしれない。ある会社の履歴書で、管理職になったときに目指す働き方という質問があったので「仕事にのめりこまないようにする」と回答して、三次面接で面接官の一人がそれを読んでウケているのをニヤニヤ眺めていたレベルである(もちろん不合格)。これも、自分は大した人間ではないと(そして社会や人間は害悪でありそこに適合しても幸福度が下がるだけだと)、大学入試の失敗で自覚できたからだろう。そういう意味ではセンター試験には感謝してもしきれない。

冠婚葬祭もそうかもしれない。会議も宴会もそうかもしれない。全然関係ないところに誰かの代理できました~っていうノリであれば、苦痛も半減以下になる。もしかしたら、人間の生きざま、人間の活動自体が、全部誰かの代理でいいんじゃないかと思う。当然そんなことはないというのが社会通念だろうが、はっきりいって小学校の運動会からして興味がなかったし、どのチームが勝とうが自分に賞金が入るわけじゃあるまいしどうでもいいと思っていた。けれども、どっかの他の運動会で受付とか掃除の雑用を手伝えといわれたら、案外楽しめるように思う。要はそこの当事者として拘束されているかどうかが苦痛の尺度なの だ。私にとっては。

集団行動は、例外なく、かったるいものだ。