スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

達成感オジサン

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


度々書いているけれど、いまだによくわからない問題があるので、懲りずにまた考えてみることにします。

何かを達成したい欲求、大きなことを成し遂げたい欲求、偉い人や組織を動かしたい欲求、それらに認められたい欲求、そんなものが今日も不要不急の労働に従事する多くの人たちのエネルギー源となっている。人よりも優れていたいという気持ちは、優劣意識といってしまえば聞こえが悪いが、切磋琢磨して人と比較することを当たり前の考え方とする教育現場では、それがあたかも正義であるかのようにとらえられているし、あまりに当たり前すぎる光景で一々疑問を持っていたらやっていけないとされる。

私も学生時代はその構造に見事にはまり 、人と自分を比べて自分が劣勢になることを極度に恐れていた。その延長線上にいれば今も会社組織で勝敗を気にしながら学校生活のような気持ちで少しでも優位に自分の立場を持ってこようと努力していることだろうと思う。けれども実際はそうはしていない。会議や根回しなどをうまくやることで評価されたり人に承認されたり、学校生活では当たり前のようにやっていたそれら無意識の行動も、いつのまにかやらなくなってきている。今では野望を持った中年オヤジの上司を他人事のように遠くから見ているだけだ。

労働と学校、評価や比較を意識した活動にはそれぞれ個人活動と集団活動があって、集団活動については会社であれば会社の成功、プロジェクトの成功、学校であれば文化祭 でのクラス優勝、運動部の大会出場、母校の進学実績の向上などがある。

集団活動については学生時代と労働者時代の双方で私は無関心だった。運動会でどのチームが勝とうが正直あまりどうでもよかったし、相手のチームに追い抜かされてイライラしたり勝利がわかったとたんに叫ぶ周りのテンションについていけなかったのだ。そして労働現場でも拍手喝采の華やかな場面で、「面倒くさい、早く終わらねえかな」と思っている自分がいる。

個人活動については学生時代は勉強・運動・芸術で、労働時代は個人の役職や収入だろうか。後者には関心がないというよりもそんな高い水準の達成目標に至るほどの労働に耐えられないという事情があって一切の追従を見せられない。前者については能力が続く限りこだわっていた。

ここで引っかかるのは、個人活動・個人評価の牽引のために集団行動にコミットできる人がかなり多いということ。労働における集団行動の一つである特定のプロジェクトや部署全員で行う会議でやたら張り切る人や、立場の強い人に媚び諂う人、組織としてのメリットももたらすし、自分自身の評価も上げることが可能だ。一体どっちのためにやっているのだろう。そんなことをはっきりさせても何の意味もないのだが、人々は一体どんな成功に満足するのだろうという疑問がとても強い。

人が怒っているときになぜ怒っているのかわからない時がある。私の欠陥の一つだ。たとえば今目の前に冷やした和菓子がある。これを 食べることで、私は気持ちが穏やかになる。おいしい、冷たい、甘い、幸福感が増す。けれどもこのお菓子をイライラしながら味わうこともせず食べる人がいて、その人は全然違うことが達成できないことにイライラしていることが後からの会話でわかった。「いい仕事をしたいと思わないのか?」「優勝したいと思わないのか?」「きちんとしようと思わないのか?」そうやって私に苛立ちの同調を求めて私が応じないことに腹を立てる人がいて、相手が怒るのも無理ないなと思いながらも、どうやって改善したらよいかが全然わからない。

縄文時代に生まれたら早々に刈られて死んでいただろうと思われる。今の世の中に生まれてよかったと、心底思う。