スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

私が勝ち負けにこだわらなくなった理由

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/

プライドが高く見栄に支配されていた過去の私、それが今となってはすべての勝敗がどうでもいいと思うようになっている。スポーツなどの団体戦の勝敗は昔からどうでもよく、それゆえ運動会などでちっとも盛り上がることがなかったのだが、個人戦の勝敗には神経質になっていた。ボウリングの練習を必死でやっていたのも、単純な楽しさよりも見栄が勝っていたからだろう。それも今となってはどうでもいい。なぜそういう考えができるようになったのだろうか。

水不足が深刻になった世界を想定する。ペットボトル100本分の水を分配するが、誰もが少しでも多く欲しいと主張したので、勝負をして勝った方がより多くの水を受け取ることができるルールを作り、水を獲得するための勝負が行われた。勝負はスポーツだった。

挑戦者たちは互いに炎天下の中、猛烈な汗をかきながら競技種目に没頭する。試合は長期戦になり、脱水症状の危険性が出てきたので、審判は両方の競技者に水分補給をするように指示を出した。その水分補給は100本のペットボトルから賄われることとなった。

結果的に勝敗が決まり、勝者が7割、敗者が3割のペットボトルを獲得することとなった。しかし、試合中の水分補給で使用されたペットボトルが20本に及び、勝者はあまりに切迫した戦闘態勢にすっかり体力を消耗し、貪るようにペットボトルの水に縋りつき始めたのだ。それはまさに狂気の表出といえた。

勝者が手に入れたペットボトルの本数は80本の7割、56本である。狂気の貪りによりさらに25本の水が消費されていた。体力回復後、手元に残ったのは31本だった。31本、最初から勝負なんてしなければ、仮に両者合意の上で7割と3割に分けたとしても、3割側は30本の獲得となり、31本と大差ない。

一体この勝負はなんだったのだろうか。相手よりも多く、そして期待値よりもより多くの資源を手に入れたいと考えていたのに、結局は勝負による消耗を回復するために余計な資源を使い、勝負をすること自体のために資源を使い、結局は有効に消費できた資源は最大でも31本と24本の総和、56本にとどまった。敗者側も敗戦処理で25本の資源を消耗したとすれば、有効本数自体が31本になってしまう。本来であれば100本を分配できたはずなのに、その3割しか建設的に使えていないことになる。

この議論は労働にもいえると思われる。労働を含めた経済活動は再分配のためにあるべきだと思っているが、実際はまったくそうではない。労働秩序を維持するために分配できたはずの資源が消耗され、摩耗した人類がその回復のために、本来豊かな使途に充てられるはずだった資源を浪費してゆく。これらは勝負、相対評価、地位、マウンティングなどの欲望と癒着する。

勝負とは一体何なのだろう、序列とは一体何なのだろう、強弱とは一体何なのだろう。本能的な欲求だと言い切ればそれ自身も娯楽となりうるのだろうが、自分は今後そういう世界観に加担するつもりはまったくないし、そんなものを繰り返していても神経消耗だけが重なり、どんどん醜い人間になっていく気しかしないのだ。10年前の自分にそう語り掛けたい。