スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

自発的不自由

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


何かがきちんとしていることに過剰にこだわることが危険だと感じる。たとえば夕食。我が家は夕食を基本的に家族でそろって食べる方針だ。多くの家庭でもそうかもしれないが、この夕食を揃って食べるということにこだわりすぎて気を病んでいる人を時々見かける。私の親もそうだ。「今日は定時で仕事が終わるの?」と成人して労働している子供に聞く。要するに、用事がないなら早めに帰って来いという話だ。寄り道や意味もなくプラプラしてゆっくり帰ってくるという選択肢はない。というのも、多くの労働者は職場と家の往復をメインにしているので、寄り道するという選択肢がないのかもしれない。遅くなるには理由が必要で、理由もなく飲み屋で時間をつぶしたり電車でどこかの駅であてもなく降りて終電まで散策するというようなことは想定されていないのだろう。

他人のことはどうでもいいという緩やかな構えが家族に対しても少しはできたほうがいいと思う。夕飯もみんな揃って食べなくてもいいと思うし、揃ったときに、今日はそろってよかったねと笑いあえばいいだけだ。だいたい形だけ揃って食べても結局テレビを見て黙って食べているのなら孤食と同じだし、食器をそろえたり片づけをしたりする手間がかかるだけだと思う。仕事が終わって家に帰ってきて、すぐにテレビをつけて無言でそろって食事をして、寝るだけの生活。私にはちっとも楽しいと思わない。少なくとも金曜の夜は通勤経路を離れて沿線散策に出かけたいし、寄り道をしないのならば何のために東京で生きているのかがわからない。

社会に対しても、どうでもいいというドライな見方がもっと必要じゃないかと思う。社会はこうあるべきだ、自分はこうあるべきだ、他人はこうあるべきだ、というべき論に縛られると、小さなことで腹を立てたり気分の浮き沈みが激しくなる。自分以外のものなどすべて制御不能なのだ。だから一切期待せず自己完結できる満足感をひたすら追い求めていくことが、笑顔(怒りを捨てて)で生きる必須条件だと思っている。同じことを繰り返すことに執着している人間は多い。同じことを繰り返すのなら人生は1日あれば十分だし、選択肢の豊富さを楽しむからこそ、まとまった時間を生きている意味があるのではないかと思う。

まあいいやと笑い飛ばしながらヘラヘラ生きていたい。そんなに他人に腹を立てる必要があるのだろうか人間は。できなくて腹を立てるようなものはそもそもできなくていいのだ。やらなくて腹を立てるようなことはそもそもやらなくていいのだ。生きていて楽しくないと感じることを、どうして延々と我慢してしかめっ面で続けるのだろうか人間は。