スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

読書がもたらすもの

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


前回と同じような趣旨になってしまうけれど、続編的なものを。

「この世界は素晴らしい」みたいな歌詞を聴くと、すぐにその曲がどうでもよくなってしまう。「あの人は素晴らしい」という評価を聴くと、その人の話がどうでもよくなってしまう。最近ではそんな経験が多い。何かを全肯定すると、途端にその事物に関する思考が全部停止してしまう感じがする。逆に、「○○はクソだ」と言い切ってしまうのも危険で、そういうのは他人への攻撃性やヘイトへとつながると思っている。

長所もあれば短所もある、すべての物事についてそういえる。すべての人についてそういえる。なのに人は両極端に物事を見る。だからその両端に振り切れた評価と異なる動きを対象物が見せた時に、物凄い嫌悪感を示したり、憎悪を剥き出しにすることがある。そうやって感情的な性格がどんどん出来上がっていくのだと思う。極端な思考や浮き沈みが激しい精神性質は必ずしも双極性障害のようなものだけではないと思うし、社会全体に蔓延していると思う。もちろん、双極性障害もかなり蔓延しているが。

読書が習慣になってから、余計にそう思う。誤解や偏見を断ち切るために人は学ぶのだと。能力比較による優劣意識を媒介した承認欲求の実現のための勉強は、あまり意味をなさなかった。固定メンバーによる集団生活は優劣意識の醸成に最適な場所だ。結局、偏差値や学年順位や合格大学で互いがマウンティングすることが目的になっていて、それは体育の授業や学校行事と何ら変わりはなかったのだ。その証拠に、当時培った学力で 今それを再現できるものはあまりない。(活用できるものはあると思う)

マウンティングのための勉強になってしまえば、単なる暗記ゲームと同じで、楽しいと思うことが激減するし、何かを知ったり考えたり疑問に思ったり悩んだりする楽しさがあったとしても、それによる能力が比較材料になってくると、他人に勝ることが楽しさの根幹になる。それは負けるとつまらなくなることと表裏一体であり、イライラが伴うようになる。わからないことにワクワクしなくなり、イライラしかしなくなる。こうなった時にはもう手遅れで、すでに優劣しか見えていない。

学校を離れて労働の世界を見て、自分が社会的地位を欲していないことを確信してからは、本当に面白いと思うものや好きだと思うものばかり学ぶようになった。これをやっていると能力に直結するというようなつまらないことを意識せず、純粋に興味を持ったものについて調べることの繰り返し、行き詰った時に頭で納得できるようにするための言語化・体系化、そういうことを繰り返すと、決めつけや固定観念からどんどん解放されていくし、ストレスもたまりにくくなる。

自分の幸福度を上げるのが勉強だとわかったのが本当にここ最近だ。16年も学校にいたのに、そんな基本的なこともわからないまま何のために頑張っていたのだろう。そんなに頑張らなくても、比較から解放されることで視界は様変わりする。学校はそういう意味で人を思考停止にさせる。「この世界は素晴らしい」と唱え続ける呪いなのだろうか。なぜ素晴らしいのかについて議論することは今後もおそらくないだろう。