スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

社会病理天国

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


東海道新幹線事件、山陽新幹線の接触事故、大阪北部地震など、混乱が続いたここ数週間、世間や社会、人間の集合体への恐怖心が一層強固なものとなっていた。

まず東海道新幹線事件、犠牲者の方は本当に気の毒だ。誰だかわからない人間にいきなり襲撃され滅多刺しにされると考えただけで私なら吐き気と目まいに襲われてしまう。新幹線に乗るのが怖くなるレベルに精神が動揺するだろう。周囲にいた人も相当な恐怖心に怯えていたに違いない。私は犯人が怖いと思った。自暴自棄になって加害行為を加え、しかも本人も死ぬつもりなのだから、防犯カメラや警備もまったく効力をなさないということ。つまり運が悪かったら死ぬしかないという状況を一般利用者は飲むしかないということだ。そして新幹線じゃなくてもいたるところでそのリスクがあるということを再認識する。

だが、犯人と同じくらい世間が怖くなった。世間が怒っているからである。怒りの矛先は犯人は勿論、JR、行政、犯人の家族など様々だ。犯人が犯行に及んだ経緯を調べると、犯人の精神は既に社会によって抹殺されつくしていて、そのきっかけになったのが家庭環境であることがわかってきた。それが良いか悪いかはここでは議論しないが、その事実に対し、さらに怒りの声が聞こえた。「家庭環境のせいにするな!」という声である。

「家庭環境のせいにするな」というのは、かなり恐ろしい言説だと思う。人間は生まれてくる段階で家庭を選べない。先日も児童虐待事件が報道されたが、5歳の子供が親の虐待から許しを請う手紙を書いた末に親に暴力を振るわれ、死んでしまった。上の言説でいえば、こういう家庭に生まれても「家庭環境のせいにするな」と言えてしまうのだ。それは例外だと言われるかもしれないが、どこからが例外かが明確じゃないし、児童相談所が無能だとすれば例外と言われる環境にいてもそこから救済を求めることなど不可能だ。そういう環境で忍耐を繰り返して発狂するのだとすればそれはもはや本人だけの責任とは言えない。

山陽新幹線のトンネル事故が発生した際も、現場の人間の対応に非難が集中した。いずれにせよ事故は起こってしまったわけで、点検を小倉駅で行ったところで最悪の事態を防ぐことはできなかった。にもかかわらず、世論は責任の所在に執着した。もちろん安全確保は鉄道会社に課せられた義務であるし、杜撰な管理は許されないと思う。ただ、身を投げるという行為自体が社会病理であり、鉄道会社とか駅の警備とかそういう次元を超えて、日本社会自体が病だと考えるのが妥当ではないかと。

そして発生した大阪北部地震地震と事故を同一視するなというバッシングが早くも湧きそうであることに怯えながら書き進めると、予想通り鉄道会社への批判が起こっていたインフラの脆さを指摘して徹底的に叩くことがメディアにより行われた。これだけの災害だったにも関わらず交通犠牲者が出なかったことが奇跡に思えるが、無害は当たり前で、そのうえで落ち度を指摘するのが日本文化らしい。褒めずに叩くばかりでは結局日本社会全体が東海道新幹線事件の病巣と同じになってしまう。

そしてこれだけの災害が発生しているのに、労働をするか否かが議論されている。交通網の寸断も、果たして帰宅のための復旧だけが望まれていたのだろうか。一日も早く「労働機能」を回復させたいという人々の意思が隠れているように思える。7時59分の時点で交通寸断により途方に暮れていた人の中にも、会社にいかなければならないという気持ちが最優先になっていた人はいたはずだろう。本来は会社などどうでもよくて家族のことや自身のことを第一に考えてよいはずなのに、それができない。

会社でも、危機管理本部や災害対策本部をどう設立するかとかいうクソくだらない議論で会議を開催していた。本当に無碍な世界だなと思う。