スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

新卒就職後に3年我慢する必要はない

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


3年は我慢すべきという言説がある。どんな劣悪な会社でも3年は絶えないと、その人は信用するに値しないという考えのようだ。若年労働者がこうした環境に耐えられず、すぐに環境を変えようとすることへの批判を示す。

この考えに対し、私は全く賛成しないが、私の親世代・バブル世代などはこの考えに賛同する。それらの善悪を議論しても無意味なので、なぜ「3年我慢説」が幅を利かせるのか考えてみる。

まず、80年代以降しばらく好景気であり、我慢の対価が大きかったことが理由としてあると思う。企業が労働者に富を分配していたとされる時代には市民の企業・労働文化に対する信用が高かった。それは社会システムへの信頼と同義だと思う。社会システムに適合すれば人生は間違いなく、それに反発することは人生の失敗を意味するという考えは未だに支配的だ。社会が健全であると妄信され続けた日本の事情が反映された風潮といえる。

その他に考えられることとしては、日本に残る年功序列意識は大きいと思う。同調志向が強い日本人は横並びが大好きで、一億総中流という言葉によって古い世代の貧困が無視されてきた。同じようなことが昨今の生活保護社会保障に対するバッシングだ。数字で見ればこれらがバッシングされる筋合いは全くなく、他に糾弾すべきものは既得権側に山積している。しかし日本人は既得権者・社会的強者の権利にはどこまでも寛容だ。

運も実力のうちという言葉があるように、生まれた時から存在する格差も仕方なく受け入れるべきものとされ、不利な条件で脱落した人間に社会は冷たい。ホームレス・生活保護の惨状だけでなく、子供に対する福祉の希薄性がそれを証明している。運悪く最初から社会・環境・身体・経済的にハンデを背負った人を救済する気は社会にはなく、セーフティーネットを喪失した人間の余裕のなさから発生する不満や怒りは常に自分より弱い者に向く。

日本がこうした「既存ルール」に縛られ、支配される側同士で消耗を続ける、繰り返すことには民族的性質もあるようだ。『ヒトはいじめをやめられない』(中野信子)によれば、安心をもたらすホルモンであるセロトニンの分泌量が少ない人の割合が日本人に高いという。日本人は物事をネガティブに、保守的に考えやすくなり、感じやすくなり、それが群れ志向につながり、既成概念に追従したり個性を潰す文化ができているのではないかとわかる。

日本人は表面上はお世辞を安売りするが、プライベートではすぐに他者を批判する。テレビを見ても出演者や取材先の店にケチをつけてばかりいる人が少なくない。誉めることが絶望的に苦手なのだ。誉めるのはタダであるのに、双方が不快な思いをする「貶し合い」に奔走する。自分が日常的に触れないものは排除しようという本能なのだろう。

3年は我慢することを主張するのであれば、なぜ3年我慢しなければならないのかを考えなければならない。それが社会的信用というならば、社会的信用とは何なのかを考えなければならない。社会的信用の定義が出来上がったら、それが本当に信用を構築するうえで重要なのか考えなければならない。そしてその信用は構築するに値するかを考えなければならない。根本的に信用なんてしていないのに表面上だけ信用するために人々を我慢させ不幸に陥らせているとしたら、それは本末転倒である。

とはいえ、世代間格差は厳しい。 私はニートだった時代があり、ニートだった時代は比較的親族も寛容だったが、私が就労して労働者となった途端に、無職や生活保護を非難する発言をすることが増えてきた。精神病への偏見も持っている。自分の子供が無職だったにも関わらず、結局はそこから脱却したら他人事なのである。それはほぼすべての日本人に言えることであろうし、この国で生きていく以上、人間の排他主義には常に警戒していきたいところだ。