スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人間=害悪、人間リスクについての考察。毎週月曜日更新。

パートナーとは

恋愛への憧れがない若者をバッシングする報道が多くなったように思う。従来の時代を追従しない者へのバッシングが既得権側から降り注ぐ傾向は普段から散々ぼやいているが、なぜ私が恋愛に憧れを持たないのか、少し考えてみることにする。おそらく私が変わり者だからという結論になりそうだ。

たとえば、恋愛表象である恋愛ドラマを見てみる。フジテレビの月曜日21時からのドラマなどがそれにあたるだろうか。12話で登場人物の恋愛模様が描かれる。そんなイメージだ。具体的な作品は荒れやすいので出さないが、作品を見てみると、とにかく「息苦しい」のだ。現実の人間社会の延長戦のように、非常に息苦しい。

演出なので現実とは違うが、だいたいが回り道の恋愛、すれ違いや駆け引き、悩む・病む、そんなことを繰り返す。もっとシンプルに意思を伝えてもっと素直に人間関係を処理すればいいのに、なんていう余計なことを考えてしまう。トラブルをドラマとして楽しむ余裕がないのだろう。だからそっとテレビを消す。

そして現実では離婚やカップルの離別が年中起こっており、私も知人(恋愛依存症の知人がいる)から散々男女問題の愚痴や相談をされてきて、恋愛が労働と同様に「社会性の担保のための義務」のように思えてくるのだ。恋愛していないとおかしいという世間の目や、SNSなどで競うためだけにステータス目的で恋愛に執着している人も周りには存在する。こうした現実のトラブルと美化された恋愛のイメージが乖離する。

演繹法的な考え方で「恋愛=幸福」を前提に話が進められているように思う。「労働=美徳」と同じで、実際にはもうその必要性がないところまで需要が行き詰っている分野を存続させるために煽っているように見えてしまう。

こんなことを先日、私と同様に恋愛に憧れを持っていない女性の友人と、酒を飲みながら語り合っていた。恋愛関係に対する過剰な認知的不協和がこの社会では頻発しているのだろうか。おかしいのは私の思考だという結論で無難に終わらせておく。