スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争

人間=害悪、人間リスクについての考察。毎週月曜日更新。

主観と客観の交錯

死刑制度に世の中の81%が賛成らしい。死刑制体に賛成が集まること自体に特に違和感もないし、大半の人がそう思っているのだろうと思う程度だ。

ただ、その背景に「被害者の感情を考えると死刑が妥当だ」という発想が多くあるということを最近認識した。この「被害者の感情を考えると」というのがちょっと難しい。

たとえば、残酷な事件や学校現場、労働現場における残虐行為を耳にすると、確かにその凄惨な現実に心が痛むし、これだけ年中人身事故が発生していることを思うと、人を死に追い込んだり苦しみを与えたりする行為に対して正当な罰が下されるべきだと感情的になってしまうことも否定できない。

実際に私も特定の事件の加害者に憎しみを覚えたことが何度もあるし、事件の関係 者や当事者の感情を勝手に推測してしまうことがないわけではない。

だからこそ、自分自身の「犯罪に対する嫌悪感」を「被害者の救済のため」とすり替えてしまう危険性が大いに存在するということだ。

これを一貫して「弱者・被害者のための正義」だと言い切ってしまえるならそれはそれでいいと思うが、そう言い切るには背景の理解が足りなすぎるし、あまりに傍観者の好都合な言動に思えてしまう。

だから、私は正直に「こうした犯罪者がさらなる脅威を与えないようにする予防と、厳罰の存在による新たな非行の抑止力、自分自身が犯罪に巻き込まれるリスク軽減のために、私自身のために厳罰化してほしい」と考えることにしたい。

自らが何かの意見に便乗することを世の中や他人のためと思うのではなく、自分にメリットがあるから特定の主張や思想を持つのだという論理にとどめておきつつも、ある価値観に対して理解・賛同を示すというのが、感情論に流されない手段なのかなと、自信がないが、そんなことを考えてみた。