スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

おかしくなったのは私たちかもしれない

職場で精神を病んだり体調を崩したりして休職したり去っていった社員のことを、他の社員は「おかしくなった人」と形容する。「あいつはおかしくなってしまった」「あいつは逃げた」「あいつは普通じゃない」などといって、「自分たちのキャリアの中で出会った”異常者”」として処理し、物語の進行を阻害した一人の人間として、健常者や現代社会が「正義」「正当」であることを前提にその存在を非難される。

「あいつはおかしくなった」という表現はとても便利である。自分が所属している多数派イデオロギーを絶対的な正と断定できるし、そこからはみ出した人間が絶対的な悪であると批判することを正当化できるからだ。中学受験、高校受験、大学受験、就職試験など、人生の分岐点になるところで脱落した人間を戦力外通告しつつ交流の対象から解除する方法として、異常認定はもはや王道と言えるだろう。

受験のボーダーフリー化が進み、コネ重視の入学試験が蔓延することで、事実上、人間が脱落するタイミングは労働生活開始時点に収束するだろう。人が人を評価するようになり、権威のある人間はますます権威を行使し、猛威を振るうようになる。ほぼすべての人間の能力評価は人物判定で行われるようになり、存在を否定され、逃げ場をなくし、さらには正義の轍からはみ出した悪い人間、不当な人間であるという物語を構築される。

「あいつはおかしくなった」「悪いのは俺じゃない、俺は正しい、弱いあいつが悪い」
こんな会話が私の過去の同級生の中でも呪文のように唱えられていた。そこと絶縁して数年が経過したが、今でもあの「異端者の排除」を平然と行う世界観には恐怖心さえ覚える。