スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

人間警報

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


対人関係が大きなストレスであると感じてはいるものの、その大半が「他人の喜怒哀楽によるもの」であることは以前にも書いた通り。ではその喜怒哀楽の原因がどこにあるのかを考えたとき、それが「発信者が持つ短気な性格」にあるということが最近になって実感を伴ってわかるようになってきた。

昔の自分も短気な面があった。なぜ短気な面があったか、それは思い通りにいかないことにイライラすることがあったからだ。ではなぜ思い通りにいかないとイライラするのか、それは理想が高いからだ。ではなぜ理想が高いのか、それは希望を持っており、その程度が現実に即していないか、現実に対して過大すぎていたからだ。ではなぜ希望を持っていたのか…

そもそも希望というのは一体なんだろう。希望は希望だろ?そんなふうに漠然とポジティブなイメージだけを頭に記憶していた「希望」というものの実態。ふとしたきっかけで改めてしっかり意味を調べたところ、こんな定義があることに気づく。

希望=好ましい事物の実現を望むこと。

つまり、希望は普段使っている「期待」に近い意味であることがわかり、歪んだ解釈をすれば、好ましい事物が実現することを前提とした感情であるようにも見える。となれば、希望の所在がある段階で、それがうまくいく可能性といかない可能性が共存し、前者が現実のものとならなかった場合に、「不機嫌」という感情が発生するリスクを秘めているということだろう。

子供にイラつく、親にイラつく、配偶者にイラつく、恋人にイラつく、兄弟姉妹にイラつく、祖父母にイラつく、孫にイラつく、友人にイラつく、知人にイラつく、教師にイラつく、部下にイラつく、上司にイラつく…こうした感情はすべて、対象となる相手に対して、自分が好ましいと思う何らかの姿形があり、それが現実のものとならないから負の感情に昇格するんじゃないかと思われる。

労働でも友達関係でも学業でも行事でもそうだ。目標が高くて真面目一筋の人間がイライラしながら場を仕切っていたり、理想が高すぎて常に周りの不満を言ったり、焦って周りに感情的になっている人がいたりする。これは真面目でありながら誠実ではないように見える。むしろ適当で自分にも他人にも寛容な代わりに、誰のことも責めない人間の方が、不真面目でやる気がないように見えるが誠実な人格に見えてくることもあるだろう。

たとえば外ではしっかり者でも家でストレスを家族にぶつけたり、身近な友達に対しては我儘でちょっと外の人には誠実なそぶりを見せたりする人間もいるわけで、要注意なんだろうなと思う。

短気の表れに日々面倒くささを感じつつも、人間関係の呪縛が続くのでできるだけストレスを持ち帰らないようにしたい

多くの人々がネットに日々の労働の苦悩やムラ社会的な日本社会に対する違和感を書き込んでいるのに、実社会では誰もが標準化された社会規範や人生設計にのっとって生きている。普通に進学し、恋愛し、結婚し、色々なことに参加して、子供も育てて、そういう「誰もがやってきた前例踏襲型人生」こそが正解だと思ってしまう。私の出身高校などは恵まれた育ちの人が多いし、割とそういう人が多い。

私のように、心の底から社会に違和感を持ち、徹底した大衆行動からの回避衝動と不適応への憧憬を持つ人間というのは、実はこの世に私以外誰もいないんじゃないだろうか。私こそが究極の変わり者でどうしようもなく孤立している生命体なのではないかと、時々考えてしまう。だから何だという話だが。