スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

文化祭はブラック企業の縮図

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/


学校行事で、準備をまじめにやらない人や消極的な人、そうした活動が苦手な人に対して、実行委員が罵声を浴びせている場面を多く見てきた。同じ学年で、しかも何か特別な監督責任も権限もないのに、物凄い汚い言葉や攻撃的な言葉で、全体を統治しようとする。そしてそういう代表者になるような人間は、たいして準備活動をせず、監督して罵声を浴びせて回っているだけということもあった。

にもかかわらず、文化祭本番を終えた最後の表彰式などでは、涙を流して絆だのみんなと一つになれただの感謝だのを述べる。恐ろしい。昨日の罵声はなんだったのか。本人も覚えていないのかもしれない。当たり散らしたほうは覚えていない。いじめたほうは覚えていない。人を死に追い込んだほうは覚えていない。

そう、すべて都合の悪いことは覚えていないのだ。だから加害者はいつもヒーローになり、被害者はその尻拭いのために死んでゆく。すでに教室全体が死んでいた。実体のない一体感と笑顔で埋め尽くされていた。机に向かって一人でできる勉強がもはや癒しに思える。

人と顔を向き合わせる段階で、疲労が蓄積されていった。そして今、同じようなことが、労働という形で再構築された。人間は集団を作り、そこで上下関係を作り、奴隷制度を確立する。逃げ場がない。

機嫌によって態度が変わる人間は山ほどいる。八つ当たり、ダブルスタンダード、罵声、皮肉、嫌がらせなど、凄惨な光景を目の当たりにし、自身もその犠牲になったことがあるので、その所在は無数にわたることが容易に想像できる。それは仕方がないことであり、いやな思いをしないように感情を殺すかスルーして聞き流す、あるいはそう言われないように事前に予防したり人間関係に深入りしないようにしたり、おとなしくするといった方法があるだろう。

ただ、そのときによって全く違う意見をされると、困惑してしまう。何をすべきか、何を選ぶべきか、何が望ましいかなどの相談事について、昨日言っていたことと今日言っていることが全く違う。昨日は賛同していたのに、同じことを翌日に話すと失笑したような批判をされることがある。こうなってくると、その人にはもう相談はできないと思うし、重要事項は自分で決めるか、その人ができるだけ感情をむき出しにしないような個体を発出してその場を収めたいと思ってしまう。瞬時に信頼がなくなる。信頼がなくなるというか、同じ答えを期待しなくなる。

一般人から批判されたり非難されると逆に安心感を覚えることがある。みんながやっているからとか世間はこうだからという理由で周りに流されながら生きていると、やたら褒められるし周りの喜怒哀楽を察知して動く労働などでは、相手の奴隷をやれば相手は満足する。

だから相手が満足しているときというのは基本的に自分は死んでいるときで、他人と時空間を共有している限り、自らが完全な安穏を手に入れることはできないと思う。だから、相手が非難してきている自分の状態というのが、本当の自分自身なのかもしれない。