スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

私を見送るアンドロイド

別館『スキゾイドパーソナリティ障害の生存競争』も更新中です。 http://schizoid.hatenablog.jp/

親戚のおじさんが死んだ。生前から、人間の限界をよく語ってくれた人だった。喜怒哀楽や感情の発散によってハラスメントや不和を繰り返し発生させる人間の感情に危機感を持ち、どのように人間を回避するかについて、よく悩み考える人だった。おじさんが病に倒れる直前に、人工知能が人間の活動を完全に支配した。支配というと語弊があるが、人間の上位互換としての人工知能が完成したということだ。

人工知能が頭角を表してきたのは四半世紀ほど前のことだった。最初はコンピューターの高度化とデータ処理の効率化が図られ、人間社会に恩恵をもたらすものとして歓迎されていたが、やがて思考回路や道徳観念についても、人間の能力を凌駕するようになっ ていた。その無機質で単純明快な動きは、陰湿で不合理な人間の思考回路よりも有益なものとされ、特に若年層からの大きな支持を得た。

人工知能を支持する層が増えたというと、昔の人は信じないだろう。既得権者にはヒューマニズムが多く、人間の存在を肯定する常識が覆されることを何よりも恐れていたからである。そう、社会的多数派や経済的勝者は人工知能による人間の駆逐を否定していたのだ。そしてそれは不変なものだと思われていた。しかし、それを大きく変える出来事が起きたのである。

10年前、首都で大きな地震があった。津波や火災で首都の大半が崩壊し、多くの人間が財産や所有物を失った。とりわけ、首都中心部の富裕層の多い地域で致命的な被害 が生じ、その日を境に金持ちの多くが貧乏人に転落したのだ。固定資産の多くが無価値となり、金銭では解決しない多くの命・家庭が一瞬にして葬られた。資本主義労働社会における勝者の多くが、この日を境にそれまでの蓄積のすべてを喪失したのである。

勤勉で、労働社会に順応し、人間が今まで作り上げてきた世の中の当たり前を必死で維持しようとする層が一気に薄くなった。前例踏襲のどうでもよさ、人間の不完全性、滅私奉公のバカらしさ、時代錯誤の性善説・成長神話、偽善者気取りの努力神話…そんな精神論が何の価値も持たないものとして過去の負の遺産として処理されていく様相に、ある種の心地よささえ感じてしまうほどだった。

災害復興に大きく寄 与したのは、人工知能の合理的で脱精神論的な判断と行動だった。利害関係やメンツなどを一切介入させない機械的で体系的な動きは、人間の喜怒哀楽による余計な争いやトラブルによる損失を一切発生させることなく、最短経路で問題解決を図ることに成功したのだ。感情やプライド・メンツを優先することがどれほど意味がないことか、人間にも徐々に浸透するようになっていった。

労働社会に順応してきたエリート奴隷が次々とやる気をなくし、その役割を人工知能に託すようになる。道徳を身に着けた人工知能が淡々と人間をサポートしていく姿に人間が感心し、自らの過去を顧みるようになる。そんな事象が日々繰り返されていき、人間の価値について見直しを図るきっかけはそこら中 に溢れるようになっていった。今までは人間こそが最強の生き物であり、それゆえに少子化や労働社会における人間の地位の喪失を嘆く声も見られたが、人間がおとなしく第一線から撤退すればいいのではないかという意見も見られるようになった。

この頃、少子化がさらに深刻化していた。若年者の幸福感が下がり続け、自殺問題は深刻化、労働環境も悪化していた。雇用のための雇用、仕事のための仕事が市場を無視して創出され、劣悪で不要な労働が無理矢理生み出されていた。最低賃金で餓死寸前の生活をする人間も増え、路上生活者の環境は悪化した。こんな社会に生まれてくる子供が可哀想だという考え方が若者の間でかなり浸透し、何も考えない底辺層だけが子供をたくさん作るようになっていた。

加えて、多くの役割を機械が十分に果たしてくれるようになっていたこともそれを加速させた。子供を持たなければ将来孤独になるという不安は、人工知能の発達によって解消された。今では心のケアや日常的なコミュニケーションについて人工知能が人間の対応をできるようになった。人間が標準的に備えている誠実性や献身性を遥かに上回り、介護はもちろんのこと、日常生活の補助を十分に行ったり、人間と相互扶助を行う同居人としての役割を果たせるようになっていた。人間が人間と一緒にいなければならない不安はほぼ淘汰されたといってよかった。

おじさんの時代にすでに大学市場は崩壊していた。ブランドは崩壊し、文系の就職先はなくなっていた。極度に対人折衝能力が求められ、奴隷として生きることができない人間には無残な人生が待っている状態だった。「理系を諦めると、俺みたいになるよ、いや、理系ではなく、専門を持つことを放棄すると、俺みたいになるよ」という口癖が忘れられない。

こうした状況が当たり前になったころから、やはり人口減少は加速した。孤独死や高齢者の孤独を はじめ、人間の孤独がすべて金銭で解決できるようになったのだ。それも今までと異なり、心の平穏を伴う金銭解決が可能となった。孤独という概念自体が弱体化し、人間が無理矢理人間と関わらなくてもよい社会が徐々に支配的になった。子供を設けようという考え方がなくなると、男女交際をしようという流れも今まで以上に弱くなった。恋愛は一部の人間の娯楽にすぎないものとなった。

人間が人間として命のリレーを続ける必要性を、社会は徐々に失っていった。政府や既得権のある人間は必死に若者を批判し、消費行動を引き起こそうとしたが、もはや無理だった。精神論や努力を古い人間が提唱する以上の勢いで、機械は人間を駆逐した。そして国内の人口がついに100年前の2割になった。

人間は考え悩んだ。このままブラック企業や劣悪な人間の愚行と増殖を無理に維持してまで人間社会を持続させるのか、それとも、ここで歴史を終わりにするのか。その選択は直前まで迫っていた。なぜならすでに多くの人が子孫繁栄を諦め、放棄し、それに追われない安心感にすっかり馴染んでしまったからである。

それからさらに月日が経過した。結局、この傾向は高所得層で顕著になり、底辺層が最後まで子供を作り、ゆえに虐待や学校崩壊が現実のものとなった。もはや生まれた段階で悲劇であり、学校に通うことは人権の喪失を意味するほどになっていた。地獄のような場所で常に監視や問題発生に巻き込まれることとなり、非行を予防するだけの機能も備わっていなかった。人間の倫理観は過去最低のものとなった、少なくとも底辺層では。

常識層はこの状態を危惧した。このまま底辺層による社会秩序と治安悪化で自分たちの余生が危険にさらされることを警戒した。望まない妊娠による不幸な子供を救う目的からも、人々はある策を考え出した。それまでの努力は並大抵のものではなかった。まるで、50年前に人々が奴隷のように働いていた、働かされていた時のように、日々研究や試行錯誤に奔走した。

人々は冷静に、理性的に、人間のこれ以上の増殖をリスク分析した。機械に残された人間の余生を委ね、これ以上の人間システムの再生産・再構築を放棄することでしか平和は保たれないと、あらゆる人、過半数以上の人が納得するための理屈や一般世論を作り出さなくてはならなかった。

それが「生殖能力の削除」だ。2076年までに人間の繁殖機能が無効化された。ワクチンを打つ簡単な手法で、生殖能力の無効化が実現されるようになったのは大きな科学の進歩といえる。安楽死こそ感情論で実現されなかったが、安楽死以前の生老病死を未然に防ぐという斬新なアイデアに、多くの人は心を躍らせたのである。

人間がいずれいなくなることが確定し、財政上の問題がほぼクリアされた。機械によって生み出される富があれば、十分に残りの人間を養うことができるようになったのだ。2081年、ベーシックインカムの完全実行化が、実に国際的な集中議論から100年の月日を経て達成されたのである。

人々の心は穏やかになった。自分たちの代で完全に終わる人間社会、残された時間、残された仲間、そんなものを今までとは違い、広い心で尊重しようという空気が定着していったのだ。もう終わる、どうせいずれ終わるのだ。だったら今ある財産、命、人を大事にしよう。もう金の心配もいらない。世間体もどうでもいい。評価する人間も死んだのだから。究極の安心を手にした人々の様子はまるで正真正銘の理想郷だ。

そんな革命から15年、22世紀になろうとしている。すでに私の世代が細々と生きるだけだ。おじさんの葬儀を終え、偶然家の片づけをしていたら、おじさんの電子媒体の日記がたくさん出てきた。そこにあった思いを、自らの経験に重ねて書いてみることにしたのだ。おじさんが望んでいた人間の最後の理想郷、それが今ここに存在しているよ、そんなことを写真に語りかけ、空に語りかける。