スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察

失感情が緩和するとき

普段できるだけ感情を表出したり喜怒哀楽が激しくなることを避けて生きているから、何かに情緒的に強く反応したりすることもあまりない。そんな中、ある曲を聴いたときに忘れていた感情の波が急激に沸いてきたことがある。

B'z「C'mon」という曲。震災後にリリースされたアルバムの最初の曲だ。直接的なものではないが、震災から再出発しようとする意図が感じられる。震災時の混乱や、当時の様々な感情が一気に思い出され、情緒的・感傷的になってしまう。

 

孤独の肖像

英会話教室に通っていた時、好きなアーティストの話題になった。当時はMr.Childrenの90年代アルバムをよく聴いており、社会風刺系のものを好んでいたので、「RoundAbout孤独の肖像」を話題に出した。すると一緒に受講していた1人が「Maybe I Have」と少し高揚気味に話に乗ってきてくれた。アトミックハートというアルバムに収録されている曲で、当時は相当なヒット商品だったとのこと。私より少し上の年代には相当に人気だったのだろう。なぜかそんなことを思い出した。

今のミスチルの曲はほとんど知らないので感想も何もないのだが、深海やボレロに収録されている問題提起ソングにとても刺激を受けた。何の発言権もない一庶民の鬱憤を代弁するかのような攻撃的な歌詞。明るいヒットソングが受けながらもその陰にある味わい深いアルバム曲に引き込まれ、昼寝をしながら、森に迷ったかのようにアルバムを聴きとおす。中高時代の休日午後にそんな時間を過ごしていたことを少し懐かしく思い出す。

多様性の嘘

「どんな生き方でもいいじゃないか」と多様性を承認し、歓迎するような発言をする人も、機嫌が悪い時や余裕がない時は、普通以外の生き方を平気で否定してくることが多い。普通に生きてこられた人ほど、心の底では自分の生き方が正解だと思っているし、それを覆すようなことを受け付けないのかもしれない。

いずれにせよ、調子のいい時に肯定的なことを言われて安心していると、翌朝にはリセットされていることがあるので、注意するようにしている。本音ベースで人生観や価値観を語ってしまうと、タイミングによっては相手に嫌な顔をされたりステレオタイプを武器に全否定されることがあるからだ。全否定されてもいいのだが、場の空気が悪くなることが厄介だ。

多様性を重視するといいながら、容認されるのはそれが遠い存在であるときに限られる。友人、家族、社会関係など、身近な人間がスタンダードを外れようとするならば、たちまち非難の対象となってしまうのだ。それを加味して行動しなければ、人間関係をうまく切り抜けることができない、とても生きづらい世の中だと思う。なんでも相談していいよという人間ほど、いざ例外が生じた瞬間に態度を変えてくる。

多様性の嘘、多様性の罠…なんと表現すればいいのかわからないが、価値観の守備範囲が広くなったときは条件付き肯定であることが多いから注意が必要だ。

例外とされた人々

エンタメ関係はほぼノータッチである。芸能にまったく興味がないからだ。そんな中、映画作品で1つだけ印象に強く残っているものがある。20世紀少年だ。大きな音が苦手なので映画館に行くことがない私は、テレビ放映時に作品鑑賞をするのだが、結局最後まで見てしまった数少ない作品だ。

個人的な感想にとどまるが、この作品が被害者論を私たちに考えさせるものであることはおおよそ確からしい。誰もが理想郷・良い時代と思われた成長時代の20世紀、終盤こそ傾き始めていたが、概ね終戦後は奇跡的な発展を遂げた社会で人々が豊かになり、平等の幸福を得たと解釈されやすい時代だ。という具合に、疑いの余地がなく固定され、今が悪い時代であると叩く際にもそのコントラストを利用しやすい点で、商品としての価値も兼ねそろえる時代だ。それはもはや枕詞レベルのものであり、最強のステレオタイプとして君臨する。

その裏で、最高の時代に最悪な人生を歩んだ人々が確かにいたということだ。人情がある時代と言われた昔もひどいいじめはあった。今よりも差別が露骨で、弱者の発言権はないに等しかった 。表面化する前の暴力・いじめ・虐待などは、被害者が泣き寝入り、我慢するしかなかったものが多かったはずだ。それらが認知されなかったがゆえ、だれにも気づいてもらえず苦しみ続け、いなかった存在にされた人は少なくなかっただろう。

天国のような場所の裏に地獄は確かに存在し、それが少数派であるときほど、渦中は悲惨であることが想像される。皆で幸せになるという言葉を発する人間はいつも幸せサイドにいる人間だ。偽善であると思っているし、私自身、自分がこうした思想や発言を残すことに気づくとき、おぞましい気分になる。

文明の進化はあれども、飽和時代の先には質量保存則が待っていて、誰かが利益を得ている陰で誰かが不利益を被っていると思う。金に余裕があるのにちょっとばかりのバーゲンやポイントに必死になったりする一方、稼ぐ知識も環境もなく餓死していく民族もいるわけだ。節約志向が美徳化され、おもてなしによる付加価値の無償化はブラック企業の蔓延を現実のものとし、相対する経済成長を求め、その最終要因を若者の消費意欲の低下とするマスコミ型の攻撃論に落ち着く。全員が幸せになれない現実に対し、ベーシックインカムくらいしか私は思いつかない。団体生活から解放することで救われる人間は確実に存在する。あらゆる人間関係トラブルのリスクは団体生活で発生し、ここが独立していればハラスメントもいじめも起こらない。所属を放棄できないから、生計を生贄として所属を強制されるから、逃げられないのだ。

20世紀少年におけるいじめも長期にわたるものだ。すぐに学校から逃げられず、とにかく「繰り返し」いじめられるのだ。繰り返しというのは悪魔だ、地獄だ。終わりがわかれば心を無にして耐えられることもあるだろう。犯罪行為などは別だが、悪口程度なら数時間で解放されるならまだマシだ。だが、毎日同じ苦痛を味わうとしたら、死を選ぶことも合理性を帯びた行動となってしまう。学校・会社・友達・家庭・親戚、生きるため、食べるために、人は逃げることが許されない。何かをやめることや休むことが死に直結するのだ。

そうじゃないという人はたくさんいるだろうが、そうじゃなければここまで飛び込み自殺は起こるだろうか。死が合理的な防衛行動となっている。そこかに所属しないと死ぬという強迫観念が、ブラック企業や違法労働、教育困難学校の淘汰を阻んでいる。とにかくしがみつく、オーナーは従属者を奴隷にし放題だ。学校や会社の場合は生徒や上司さえも閉鎖空間で勝手にオーナーとなり、マウンティング・虐待行為を行う。そのサイクルは永続する。

20世紀少年は苦しみ続け、消えた。エンディングはそれでも過去の修正描写によりすっきりした終わり方になる。しかし、結局は生き残った多数派がヒューマニズム・人間至上主義に酔いしれ、それらが肯定され、人間社会が続くこととなるわけだ。苦しんだ人、いじめられた人、死んだ人はあくまでも「例外」として処理され、強者がそれに納得する形で勝手に清算される。

20代後半になり、子孫を残すか否かの選択を迫られる場面もなくはない。何の疑問もなく子供を作り、順応している人 が周囲にもいる。彼らにとって生きること、生まれることはあまりにも当たり前で、それができない人は「例外」なのだろう。昔の友人知人も、こうした少数派に対する偏見をよく話していた自己責任という言葉が好きなタイプが多かった。

あるものをないものとして生きていくことがこの社会での正解である。何にも疑問を持たず、成長時代やバブルの模倣を貧困化で持続し、権力者に従い、長いものに巻かれることが正解とされる。つまり、20世紀少年に復習されるような生き方をすることが、正解ということだ。その正解をなぞるために生まれて、生きて、生命のリレーを維持し、繰り返してゆくのだろう。

人から物へ

電車を待っている間、列に並んでいると、近くからカレーの匂いがしてくる。周りを見ていると、近くのオッサンがカレーパンを立ち食いしていた。多くの乗客がこの オッサンにイライラしているのがわかる。推測にすぎないが。

実際に車内や交通機関での食事はマナー違反とされ、特にこの時点では夕方ラッシュ時の下り電車だったので、猶更である。私も最初はちょっと迷惑な人だなという気分になりかけていた。

しかし、少し視点を変えて、この人が食べているパンに注目してみる。人ではなく、モノだけを見てみるとどうだろう。ただそこに台があって、カレーパンが置いてあることをイメージしてみる。美味しそうな匂いがしてくる。寒くなってきたし、久々にカレーを食べたくなる。

そんなことを考えていると、カレーパンが美味しいパン屋さんを思い出し、久々に立ち寄ってみようと思う。夕食のメニューもカレーにするかなどと頭の中で勝手に盛り上がる。

人から注意をそらすだけで、たちまち感情が理性へと変わる。イライラしながら無駄な時間をすごして帰宅するよりは、遥かに中身がある。人にこだわるとイライラすることでも、モノにこだわればそこに好奇心が作用し、マイナスをプラスに変える。私が単に人に無関心・無欲だからかもしれないが、この方法を多用することで、他人に左右されない人生が蓄積してゆく。そんなことを思う。