スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

普通の人間は死ぬしかないの?

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この記事をネットで紹介していただいて、改めてゆっくり読んでみた。とても現代の病を象徴しているなと感じる。皮肉にもこれほど鮮明に現代の社会、特に労働社会を象徴するものはないと思えた。人間が生活する上での付加価値がどんどん人間以外に備えられてくる。そんな時代に生きている。

受験や就職などの転機がクローズアップされる春。勝ち負けや序列意識が飛び交うのも春。そんな垂直評価に一喜一憂して、それを糧に競争にさらされてきた未成年たちが労働社会に放り出されて、現実に苦しむことが繰り返し発生する。

いい大学を出ていい会社に入れば人生は安泰…そんなことを団塊世代が得意気に話す。いまだに事務職を書類の手書き業務だけだと思っている老婆たち。この人たちにとっての安泰な人生像は確かに時代錯誤だが、かつて現実に存在していたことも事実なのだ。今では絶対に正社員が担っていないような単純作業が、普通に正規労働者に割り当てられていたし、それで十分な人生を送ることが可能だった。決して単純労働を軽視しているわけではなく、黙々と正確な作業を進めることによって生計を立てることができなくなってしまったことに、一種の絶望を感じる。

過労死や労働関係の自殺が連日報道される。それだけでなく、学生や就活生の時点で自殺を選択する人も少なくない。ブラック企業や過労が問題となる中、そこに至る過程も徐々にブラック化しているのを強く感じる。そしてそれに順応することがあたかも健常者の生きざまであるかのような言説がこれまで以上に顕著になり、外れた人間は病んでいる、不適応、精神障害などと排除の視点に置かれ、間違ったもの、ダメになったものという扱いを受ける。

良いか悪いかわからないが、私はこの構造に乗っている。残念ながら社会からドロップアウトしていない。昭和的核家族の構築や会社人間としての昇進などを放棄しているので、半分俗世間をリタイアしているともいえるが、だからといって周囲から明確に非難されるようなことはしていない。けれども、私はそんな中途半端に適応する自分自身を、最大の異常者だと認識している。それは無味乾燥な活動に膨大な時間を費やしていることや、何の疑問も持たずに権威に服従しているという自身の機能不全にも因るものだが、それ以上に、そんな社会をごく普通の者だととらえてしまっているところに、自らの異常性、後戻りできない思考停止を感じる。それはとても残念であるし、いったい何なんだろうと思ってしまう。

自殺したり会社をバックレたり組織への所属に苦痛を感じたり病んだり、色々な形による不参加があるが、思い切って不参加に踏み切った人間こそが、真の健常者であるように感じる。人間は、物事を説明できなくなった時に、生物学的本能や本質を理由に様々な理論武装を行うが、苦痛から逃れたり危険から逃げることに対しては、正反対の行動をとり、そしてそれを生物学的本能第一主義との矛盾点から除外する。逃げるな・負けるな・勝てという科学的根拠に乏しい根性論を振りかざすも、その中身は本来備わっている生き物としての本質と全く異なるものだ。そしてそれは生存のための合理的な選択と相反する。そう考えれば、日本の文化そのものが生物学的な生存戦略と乖離したものだといえるし、世間や社会という共同体を作って構成員全員が不利益の共有を続けているだけに過ぎないと思う。

今回もまとまりがない記事になってしまった。鬱になる人や自殺する人、やる気がない人、常識や社会規範からドロップアウトした人こそ、私は健常者、常識人、一般人、真の社会人だと思う。