スキゾイド雑記帳

人間害悪・人間リスクについての考察。個の尊重される社会とは。

死にたいといわれたら

死にたいと唐突にいわれたとき、私たちはどのような行動をとることができるだろうか。死にたいといっても決して自殺してしまうわけではなく、死にたいという心理状態に順ずる無力感を常に備えた状態にある人と対峙することを想定した場合についてである。継続的に死にたいという人を何度も見てきたが、その多くが人生や社会や他人に対して何らかの理想を持っていて、それが叶わないことに耐えられないという場合が多い。この場合の他人は投影した自分自身を含む。自分や他人や社会や組織や秩序についての自信の価値観と現実の乖離に対してそれを修正しようとする憤り、修正できないやりきれなさ、焦り、誰もそれをかなえようとしてくれないという失望と怒り、理想がかなわないことによりすべてを投げ出してしまいたいという自暴自棄な考えなど、様々なことが複雑に絡み合っている状態を想定する。

死にたいという人の心理はそもそも期待にある。他人の目や行動が異常に気になってしまったり、人間への執着が捨てきれない人間はどれも狂いそうにしている。他人の行動や発言を理由に機嫌を変化させ、それに一切動じないということができない。人を許すことができないということだろうか。許す許さないの問題ではないかもしれないが、何かをやり過ごすことにあまり長けていない場合が多いのかもしれない。

祖母の介護をしていた際に何度も死にたいといわれた。確かに状況を考えれば死にたいといいたくなるのもわかるのだが、自分は何もアクションを起こさないで周りが自分の完璧に思うように動かないとすねてしまうという状態だったので、かなり対応に苦戦したのを覚えている。祖母はもともと周りがお世話をしてくれたりちやほやしてくれる人生を送ってきたので、常に自分に周りが奔走してくれないと、恐らく承認欲求が満たされないのだろう。承認欲求は昨今のSNS現象だといわれているが、実際は私の祖母世代から承認欲求は存在していたし、私の父方祖父母は最後そういう類の鬱状態になったので、恐らくこの世代の人々にとっての鬱なんだろうと感じた。

そして知人複数についてもこれがいえる。親子の共依存、恋愛中毒、女性社会の中での人間不信、その他色々あるが、やはり自分または他人の何かにひっかかりを感じ、それがマイナス感情の無限発散につながっている様子だ。たとえばおたくのように趣味に没頭するとしても、その趣味もやはり承認欲求や対人関係に通じているものにとどまり、結局は人間関係にやんでいくという構造がある。この構造は狭い人間関係や不合理なルール、価値観に陥る危険性と隣り合わせであり、それゆえなかなか脱却することができない。

趣味や楽しみを提供しても、誰か特定の執着対象にこだわってそれらを打ち消してしまう。人間の力がそれだけすごいということなのだろうが、私にはなかなか理解できないので難しい。どうやってそれら人々の循環的マイナス思考と理想に起因する対人鬱憤を打ち消せばいいのか、これに悩み試行錯誤を始めて気づけば10年程度が経過していた。今後どのように取り組んでいけばいいか、少し迷っている。